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The Beatles Story
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01. Please Please me (1963)
02. With The Beatles (1963)
03. A Hard Day's Night (1964)
04. Beatles For Sale (1964)
05. Help !
Let It Be (1970)
株式会社This Company
〒000-0000 東京都港区神道123
Tel: (123) 456-7890
1926年1月3日(Sun)
ジョージ・マーティン(George Martin)誕生
ビートルズの音楽創造に極めて重要な役割を果たした「ジョージ・ヘンリー・マーティン (George Henry Martin)(ジョージ・マーティン (George Martin) )」は、1926年1月3日にロンドン・ホロウェイ(Holloway, London) で生まれす。
彼の家庭にはピアノが備えらており、彼は6才時以降音楽に興味を持つようになり、その2年後には両親に許しを経てピアノのレッスンを受けるようになりますが、このレッスンは長くは続かず、その後は独学でピアノの演奏法を身につけます。
ホロウェイの修道会学校や聖ジョーゼフ初等学校など、複数の学校を様々な理由で(資金面の多々あり)入退学し、最終的には奨学金を勝ち取りスタンフォード・ヒルの聖イグナティウス大学に入ります。
そして、戦争が始まり、聖イグナティウス大学の学生はウェルウィン・ガーデン・シティに疎開させられることとなり、その影響もあり、マーティン一家はロンドンを離れ、マーティン自身はブロムリー・グラマー・スクールに編入します。
ジョージ・マーティンは語ります、「私が初めて交響楽団を聞いたのはティーンエージャー時だった。その時の事はよく覚えているよ。公開コンサートでエイドリアン・ボールトが私の学校にBBC交響楽団を連れて来た時だった。魔法に掛けられたような衝撃だった。それは規模の大きななサウンドで、光輝いていた。ただ、真鍮や木製の器具を吹き、弦を馬の毛の弓でこすったりする90人の男女の様をその壮麗な音と結びつけることはその時の私にはができなかったよ。」。
その後彼は、積算士として働き出しますがそれは短期間で、続いて国防省の臨時職員となり、1943年には、17歳で英国海軍のパイロットになり同時に将校もなります。
しかし、戦闘に巻き込まれることなく戦争は終わり、退役軍人の助成金で1947年から1950年までの間「ギルドホール音楽演劇学校」 に通い、ピアノとオーボエを学びます。
そこでは、モーリス・ラヴェル(=『スペイン狂詩曲』やバレエ音楽『ダフニスとクロエ』、バレエ音楽『ボレロ』の作曲や『展覧会の絵』のオーケストレーションでよく知られたフランスの作曲家)やセルゲイ・ラフマニノフ(=ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者で、ピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソであり、作曲とピアノ演奏の両面で大きな成功を収めた音楽家としてフランツ・リストと並び称される存在)、コール・ポーター(=6歳でヴァイオリンを、8歳でピアノを習いイェール大学卒業後、ハーバード大学に入学するが、最終的に音楽家としての道を選んだ、アメリカ合衆国の作曲家・作詞家)、ジョニー・ダンクワース(=(別名John Philip William Dankworth)英国エセックス州ウォルサムストウ生まれのジャズ奏者であり、アルトサックス奏者、クラリネット奏者、アレンジャーとして活動)などの音楽を学びます。
この時のオーボエの教師は、偶然にも1960年代にポールと恋仲になる「ジェーン・アッシャー」の母のマーガレット・アッシャーです。
そしてマーティンは在学中にもかかわらず、1948年1月3日(彼の22歳の誕生日)に、シーナ・チザムと結婚し、アレクシスとグレゴリーの2子を儲けますが後に離します。
1966年6月には、ジュディ・ロックハート・スミスと再婚し、ルーシーとガイルズの2子を授かります。
その後、ギルドホール音楽演劇学校を卒業し、BBCのクラシック音楽部局で働きますが、短期間で止めてしまいます。
そして1950年、パーロフォン社長のオスカー・プロイス氏の助手としてE.M.I.に入社します。
過去においてのパーロフォンは伝統のあるドイツ系の重要なレーベルでしたが、マーティンが入社した頃はE.M.I.のマイナーなレーベルの一つにとなっており、マネージャーのプロイスの1955年の引退に伴い、マーチンがE,M,I.傘下レーベルのパーロフォンのマネージャーであり実質のヘッドとなり、成功の道へと突き進みだします。
彼の最大の成功はコメディや企画物のレコードで、コメディ俳優のピーター・セラーズらの作品など、コメディ色の強いレコードの制作を多く手がけ実績を積み、1962年にマーティンは、レイ・カソード のペンネームで「タイム・ビート」と云うエレクトロニック・ダンス曲を録音してリリースし、「戦場にかける橋」のパロディ作品を作った際、収録曲の「クワイ河のマーチ」について会社上層部からのクレームを受け、既に録音し終えていた曲中の「クワイ(Kwai)」というフレーズから「K」の部分だけ削除して「ワイ河のマーチ」に作り直したと云うエピソードもあり、頑固で洒落っけがある気質はここでも見受けられます。
その後、英国で芽を出し始めていたロックンロールの波に乗ろうと、彼はパートナーとなるグループを探し始めます。
そしてマーティンは、デッカのオーディションを不合格になり、その他の大方のレコード・レーベルにも相手になさなかったポップ・グループのマネージャーである「ブライアン・エプスタイン」を知ります。
彼は1962年の2月13日にエプスタインと会う手はずを調え、その場でビートルズのデッカでのオーディションでの録音を聞くことになります。
マーティンは語ります、「彼らの音楽性は非凡だったが、ジョン・レノンとポール・マッカートニーのヴォーカルには好感を持ったよ。」。
そして、マーティンとエプスタインは1962年5月9日にE.M.I.スタジオ(アビイ・ロード・スラジオ)で再度打ち合わせすることになります。
マーティンは語ります、「『僕はまだ彼らビートルズに会ったことはないし演奏も聞いたこともないが、君の熱意に打たれ、契約することに合意するよ。』とエプスタインに言った。この時『失うものは何もない』と考えて、「1枚のレコード売上げに付き、1ペニーのロイヤリティをビートルズ払うこと」を契約に入れると約束した。」。
そして、マーティンはそのバンドのパフォーマンスを聞いてから契約書にサインするという条件で合意します。
1962年6月6日に、プロデューサー:ロン・リチャード、エンジニアノーマン・スミスでE.M.I.のオーディション・テープの録音が行われます。
マーティン不在のレコーディング・セッションですが、終了後彼はビートルズに会い、テープを聴きます。
マーティンは語ります、「僕はビートルズと云うバンドのオリジナル曲はあまり良くないと思った。彼らに『何か気に入らない事はあるか』と尋ねると、ジョージ・ハリスンが『まずはあなたのネクタイですね』と答えた。この時を境にガラッと楽しいムードに変わったね。僕は彼らのウィットだけでも契約する価値があると感じたよ。」。
1962年にビートルズを見出したことによりプロデューサーとして大成功を収め、1965年にはEMIから独立しますが、ビートルズのプロデュースは継続します。
その後もジェフ・ベック、アメリカ、チープ・トリック、ポール・マッカートニーなどのプロデュースを手がけ、1997年、ダイアナ妃を追悼したエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド97」が、彼にとってのイギリスにおける30曲目のチャート1位作品となり、1998年、ジェフ・ベック、セリーヌ・ディオン、ヴァネッサ・メイ、BONNIE PINK、フィル・コリンズらの参加したビートルズのトリビュート盤『イン・マイ・ライフ』を息子のジャイルズと共にプロデュースし、自分の名義で発表します。
1999年、聴力の衰えを理由にプロデューサー・エンジニアを引退し、その後は公演会でのパネル活動を主軸にしています。
そして、2016年3月8日に亡くなったことが、海外メディアで報じられます(90歳没)。
1962年のデッカのオーディションに不合格となったビートルズは、マネージャーのブライアン・エプスタインの貢献により、ジョージ・マーティンへの売り込みに成功します。
マーティンはビートルズのメンバーと直接面会していないにもかかわらず、ビートルズにレコーディングを要請し、同年6月6日、彼らをE.M.I.スタジオに呼び、多くの曲を演奏させ、演奏技術を確かめた後、その場でデビュー曲のレコーディングを行います。
彼マーティンのビートルズに対する第一印象は「彼らはだいぶひどかった(They were pretty awful)」と云うものですが、彼はビートルズと契約すことを決めます。
その決断こそが、彼らとマーティンとの長きにわたる関係の始まりとなります。
この時、緊張していた彼ら4人にマーティンは「何か気に入らないことがあるか?」と尋ねたところ、ジョージ・ハリソンの回答が「あなたのネクタイが気に入らないね!」と云うもので、その時に感じたセンスやユーモア、そして音楽性が、お互いを認め合うスタートであると云われています。
彼は最初のレコーディング時のドラマーであるピート・ベストの演奏が気に入らず、レコーディングには使えないことを指摘します。
マーティンのこの指摘が直接的な引き金となってピート・ベストが解雇され、あらたにリンゴを加入させるというメンバー再編となったと報道されてますが、後に発表されたジョージ・マーティンの自伝『耳こそすべて(ALL you need is ears)』によれば、マーティンはベストの脱退に関してはまったく関与していないと語っており、現在ではピートの脱退はマーティンの示唆によるもの、という説はほぼ否定されています。
マーティンの音楽的専門知識は、ビートルズの天賦の才能と達成しようと考えていたサウンドとのギャップを満たすことを助け、ビートルズの楽曲におけるクラシック的アプローチやオーケストレーション、複雑なサウンド・エフェクトの多くが、マーティンとの共同作業によるもので、代表的な例として「ペニー・レイン」におけるピッコロ・トランペットのソロや「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのテンポもキーも違った二つの曲を一つの曲にするという離れ業を行うなど(注意して聞くと開始から1分ちょうどを境にテンポが違っているのが分かります)、彼はメンバーからの困難なリクエストに応え、その音楽的な成功に大きく貢献します。
ただし、実際はジェフ・エメリックの手腕によるところが大きいとも云えるでしょう。
彼自身は「アレンジの際、ポールは音楽的に解り易く説明してくれたので、あとはそれに基づいて譜面を書けばよかったけど、ジョンは抽象的な表現だけで説明してくるので苦労した」と振り返っています。