灰皿の中のビートルズ (The Beatles in my Ashtray)

《 The Beatles story ビートルズの軌跡 1962 後半 (08/ ~ 11/26)》

 

 《 ビートルズのドラマー、ピート・ベストの交代劇 》

 

ジョン、ポール、ジョージ、そしてドラマーのピート・ベストというメンバーだったビートルズにとってドラマー交代と云う事件は一大事で、そしてそれは、ブライアン・エプスタインにとって、マネージャーとしての手腕が問われることでもあります。

ビートルズのメンバーであるピート・ベストはどうしてしまったのか。

このことについて他の3人は殆ど語っておらず、気が付いた時には「ピートはビートルズから消えていた」そんな印象を受ける方も多いでしょう。

事実はなんとも意外で、最初のテストをかねたレコーディング時、ジョージ・マーティンは「あのドラマーは使わないつもりだ。」とエプスタインに告げます。

エプスタインは突然の衝撃に襲われますが、その道のプロであるジョージ・マーティンの言葉は絶対で、マーティンは「彼はリズムをキープ出来ないドラマーだ。グループを引き締めてくれるようなドラマーでなければならない。とりあえずセッション・ドラマーを連れてくる。グループをどうするかは、君に任せるよ。彼はジェームス・ディーンのような憂いを含んだルックスだったけど、明らかに他の3人とは違っていた。ユーモア感覚やカリスマ性というものを全く感じなかった。何も意見を言わず、黙ったままだった。一等悪かったのは躍動感が無かったことだ。グループはスウィングしていなかった。」と語ります。

エプスタインは、ピートがメンバーの中で最もハンサムで女性ファンも多いと思っており、彼が居なくなるショックは隠せません。

エプスタインはピート以外の3人にこの事を伝えますが、3人からは意外な反応が返ってきます。

この驚くべき知らせに対し、異論をはさむ者が1人もおらず、どちらかと云うと彼ら3人の中でのピート・ベストは仮のメンバーと云う認識です。

むしろ、「自分達の感覚が間違っていなかった」ことをジョージ・マーティンによって確認出来たと思う始末です。

翌日、ジョンは「エプスタインがピート・ベストを解雇してくれれば、代わりのドラマーを引き抜いて来るよ」とマーティンに告げます。

そして「自分達の感覚が間違っていなかった」ことに対しての証拠にすぐに新たなメンバーとなるべき人物の名を挙げます。

「ドラマーの交代を伝える」、エプスタインは、思いも寄らぬ気の重い役割を果たさなければならなくなります。

1962年8月16日、エプスタインはピート・ベストをオフィスに呼んだところ、ピート・ベストは、エプスタインの態度がいつもとは全く違うことにすぐに気付きますが、正式なマネージャーになるまでの間でもエプスタインとグループとの仲立ちをしていたのは自分であると云う自負の下、いつもの呼び出しであると自分に言い聞かせ、「何の用ですか?」と伝えると、エプスタインからピート・ベストを打ちのめす言葉が放たれます。

「ビートルズを脱退してほしい!ドラマーを交代するんだ。」。

ピートは、ビートルズが直接そのことを伝えなかったことを悲しみます。

特にジョンが、面と向かって解雇の理由を言ってくれなかったことを今でも残念に思っていると云います。

 

 《 ピート・ベストに首を言い渡した男「ブライアン・エプスタイン」とは 》

 

「ピート・ベストがビートルズを突然脱退した!!」と云うニュースはすぐに広まり、また、ピート・ベストを辞めさせる際に、当時リヴァプールでD.J.をしていたボブ・ウーラー(キャバーンの顔とも云われたD.J.)とエプスタインとの間に一般的に知られている以上の何かがあったらしく、激しい言い合いがあったことも世間に知られてしまいます。

ボブ・ウーラーは「ピートの件は変な噂が広まるより真実を書いた方がいい!真実を書く!」と経緯の全てを公表する旨をエプスタインに告げ、彼は、それが、多くのファンのためにとるべきことだと主張します。

彼とエプスタインは口論し、エプスタインは逃げ出すように去りますが、その場にいたテッド・ニップス(歌手ビリー・クレーマーのマネジャー)が、仲に入り「ピート・ベスト、エプスタイン、そしてビートルズに起きたことは、第三者が口出しすべきではない」とウーラーに語り、エプスタインが去った後、彼を説得します。

ウーラーがどのようなことを書こうとしたのか不明ですが、エプスタインが必死にピートの「首切り」を行ったことは紛れもない事実で、それは、端から見れば「何とも非情な行い」に見えたとしても仕方がないのでしょう。

エプスタインは、レコード店経営者からロックグループのマネジャーに転身したおそらく初めての人間で、「その世界での当然の常識に無知」であったと云うことが彼の行いに拍車をかけたのも間違いないでしょう。

しかし、同時に「その無知さ」が、考えられないほどの成功をビートルズにもたらすことになったのも事実です。

当時のエプスタインとしては、目の前の問題を自分なりに一つ一つ懸命にクリアーして行くしか無かったと云うことです。

ピート・ベストから交代したリンゴ・スターは、ビートルズにとって申し分のないドラマーだと誰もが感じます。

特にジョージ・マーティンは、リンゴが有能なドラマーであることに満足します。

ジョンとポールの邪魔をせず、しかもキュートでユーモラスな彼のセンスはグループとして全く違和感も無く、彼を選んだビートルズのセンスにもマーティンは改めて感心します。

しかし、別の問題は依然存在しており、「ピート・ベストをクビにした男、エプスタイン」は、ファンたちの怨嗟の的になり、彼はキャバーン・クラブに近づくことさえできなくなります。

普通の生活でも、ボディーガードに守られなければならないほど危険な状態に陥り、「ピート・イズ・ベスト(ピート・ベストがナンバー1だ!)」、「ピート・フォエバー、リンゴ・ネバー(ピートよ永遠に、リンゴは要らない)」、とが書かれたプラカードを持ったファンたちが、N.E.M.S.((ネムズ)エンタープライズ (N.E.M.S. Enterprise)とは、1962年6月26日、ブライアン・エプスタインが弟クライブを共同経営者に、ビートルズのマネージメント実務を処理する組織として設立した会社)の前を一日中歩き回ります。

しかし、ピート・ベストを「傷つけた(とされる)」エプスタインは、それ以上に「傷ついていた」のかも知れず、彼は、自分がピートにとった態度に自責の念を持ち、罪悪感に悩まされ、心身ともに疲れて行きます。

そして、彼の常識とピートの件同様であろうこれから起こる出来事は、彼の理解を超えたところで進んでいくのですが、普通の人間ならば、とても耐えられないようなことにも彼は我慢し続けます。

何故なら、彼は誰よりもビートルズを素晴らしいと思い、崇拝すらしていたからで、彼は誰よりもビートルズを愛していた人間だからです。

やがて彼は、ビートルズ流の毒を含んだ、ひねりの利いた言葉のセンスを楽しめるまでになります。

彼は、一見どうしようもないただのチンピラにしか見えない若者達が、実はとてつもなく鋭い感性を持ち、頭の回転も人一倍早く、一目で真実を見抜く洞察力を持っている素晴らしい人間達だということに気が付くのです。

当時のエプスタインをクラブのオーナーが語っています、「彼はステージ脇で、ビートルズを見つめ、楽しくて堪らないという様子でした。彼は、すべての音、すべての瞬間を逃すまいとしているようでした。彼はいかにも上品で物静かで、まるで俳優のようでした。でも、彼はできることなら自分もビートルズになりたいと思っていたのでしょう。見込みはありませんでしたけどね」

そして、ブライアン・エプスタインは「5人目のビートルズ」として精力的に活動をし続けるのです。



 《 ジョンとジョージのGibson J-160E "Jambo" 》


1962年9月10日<昭和37年(月)>


1962年9月11日、ビートルズはデビュー・シングルを再録音することになりますが、ぞの前日の9月10日、ジョンとジョージの二人は、トニー・シェリダン (Tony Sheridan) が弾いているGibson ES-175 'Jumbo' に感銘を受け、自分たちもとリヴァプール・ラッシュワース楽器店に発注していたGibson J-160E "Jambo"がこの日アメリカから到着したと云う知らせを受け、受け取りに行きます。

このJ-160Eは、翌日の『Love Me Do』の収録ではジョージが、『P.S. I Love You』の収録ではジョンが演奏することになります(『P.S. I Love You』のジョンのギターはRickenbacker 325の可能性も大いにある)。

右写真と下記写真はマージービート誌が同年10月に掲載したもので、初めて手にした9月10日に撮影されたものかどうかは不明です(ギターのTOP面に傷がありストラップもすでに装着されていることから、マージービート誌のイベントにて後日改めての撮影の可能性があります。

<参考記事>
1963年後半、ジョンのJ-160Eは盗まれたとされていましたが、現存するジョージのJ-160Eのシリアルナンバーは、ジョンに渡されたJ-160Eのもので、ジョンとジョージのJ-160Eはある時点で、入れ替わったことが分かっています。

50年以上行方不明だったジョンのJ-160Eは、奇跡的に存在していたことが分かり、2015年11月7日の米・ビバリーヒルズのオークションハウス・Julien’s Liveが主催したオークションのイベントにて出品され、241万ドル(約3億円)で落札されます。


 《 Love Me Do - How Do You Do It - Please Please Me - P.S.I Love You 》


1962年9月4日(Tu)<昭和37年(火)>


1962年6月6日のロンドンのE.M.I.(アビー・ロード)・スタジオでのレコーディング・セッション(E.M.I.オーディション)から約3ヶ月後の1962年9月4日早朝、ビートルズはリヴァプール空港からロンドンに飛び、チェルシー・ホテルにチェックインした後、正午過ぎにアビーロードに到着し、彼らのデビューシングルのレコーディングのため、E.M.I.アビーロード・スタジオに戻って来ってきます。

6月6日と一つ大きく異なるのは、ドラマーが、ピート・ベストからリンゴ・スターに交代していることです。

彼らは、レコーディング・セッション本番に先立ち、マーティンのアシスタント、ロン・リチャードの監督下で3時間(午後2時~午後5時)、6曲をくり返し演奏するリハーサルを行い、『Love Me Do』と『How Do You Do it』のレコーディングを選択します。

ソングライターのミッチ・マレーが書いた曲『How Do You Do It』はマーティンがビートルズのデビューシングルとして選んだ曲で、マーティンはマレーに、1962年初めにバリー・メイスンとデイヴ・クラーク・ファイヴがロンドンのリージェント・サウンド・スタジオで録音した『How Do You Do it』のデモ用アセテート盤を送らせ、ビートルズに聞かせます。

しかし、マレー自身は「この曲は“アダム・フェイス“がリリースするのために書いた」と語っています。

しかし、この曲を聞いたビートルズは「オリジナル曲の持つ躍動感を殺し、彼らの嗜好に合わせたR&B色の強いもの」にアレンジし直してしまいます。

最終的にジェリー&ザ・ペースメーカーズがこの曲を録音・リリースし、1963年にNo.1ヒットとなりますが、ベースはビートルズがアレンジしたものです。

ポールは語ります、「ジョージ・マーティンは『How Do You Do It』と云う曲がNo.1ヒットになることを知っていたんだと思う。だから僕らにデモ録音テープを渡した。白い小さなアセテート盤だった。僕らはそれをリヴァプールに持って帰って話し合った。『これどうする? これは彼が僕らに望んでる曲だ。彼は僕らのプロデューサーだ。やらなきゃならない。覚えなきゃいけない。』。だから僕らはやった。ただ好きじゃなかったのでマーティンの所に戻って言った。『うーん、確かにこの曲は今の僕らにはNo.1の曲かもしれない。だけど僕らはこの手の曲はどうも好きじゃない。こういう曲をやる歌手のイメージを持たれたくないんだ。これは僕らが求めるものとは違う。僕らは何か新しいものが欲しいんだ。』。味方陣営の人に対する態度としては、僕らはかなり強硬の姿勢だったように思うよ。でも彼は分かってくれたよ。後に彼マーティンは僕らが録音したデモをジェリー&ザ・ペースメーカーズに聞かせて言ったんだ。『彼らはこれ要らないそうだ。これは大ヒットだぞ。君らがやれよ。』と。それでジェリーはそのチャンスに飛びついた。彼は僕らのバージョンとほぼ同じテンポを受け継いだ。オリジナルのデモとはかなり違ってて、あれは基本的には僕らのアレンジなんだよ。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)

1962年頃は、レコーディング・スタジオを使用する際の規制は厳しく、セッションは1日3回ーー午前10時~午後1時・午前2時30分~午後5時30分・午後7時~午後10時に限られ、それ以降は残業許可を取り、ミュージシャンズ・ユニオンの然るべき申請書に署名がなければ、如何なる作業もさせて貰えないことになっており、この他にも興味深いのが、1970年代まで続く「テクニカル・エンゾニアの白衣姿」で、レコーディングに来たはずなのに「病院なのか?」と帰ってしまう人もいたようです。

「自分たちは自作の曲をやりたい」とマーティンに伝えるビートルズ、それに対し「僕が選んだ曲に匹敵する曲を書けばやるとこにしよう」とマーティン。

そして、この日のレコーディングは午後7時から始まります。

ビートルズはオリジナル曲をデビューシングルしようと想うものの、「彼らは全然嫌がらなかったよ。やりたくなかったにせよ、仕事は上出来だったよ。』という評価をマーティンに貰っています。

しかし、義務感のような気持ちで非オリジナル曲の『How Do You Do It』の多くのテイクを演奏し続けるヤル気の無さがやはりマーティンに伝わったようで、この曲のレコーディングは中止し、マーティンはオリジナル曲でデビューするチャンスに掛けることに同意します。

そして、ビートルズは『Love Me Do』のレコーディングに取り掛かります。

まず、リズム・トラックを15テイク15録音し、その後にヴォーカルが重ねられます。

しかし、マーティンはハーモニカと歌を同時にジョンがやるのは無理だと判断し、ポールが急遽ボーカルの大役を与えられることとなります。

ポールは語ります、「初期のセッションのことは良く覚えてる。『Love Me Do』で初めてスタジオ入りした時、まずは写真撮影、ジョージは目の回りに痣ができてて嫌がってた。キャバーンでジョージの彼女に横恋慕してきた奴にからまれて殴られたからね。とにかくいつものように『Love Me Do』をやり始めた。ジョンは歌って僕がハモって、♪pleeeaase♪そこでストップ、それで♪love me do….♪と来て、そこからハーモニカ、ワーワーワワーってね。するとジョージ・マーティンは『ちょっと待って、それじゃまずいよ。一人でヴォーカルとハーモニカの両方はできないから、誰かほかのメンバーが♪love me do♪のところを歌わなくっちゃ。でないと『ラヴ・ミー・ドゥ』ではなく『ラヴ・ミー・ワー』って曲になっちまう。ポール歌ってくれ!』と言ったんだ。僕はビビりまくったよ。それでアレンジを急に変えた。そしてジョンはキメのフレーズを歌えなくなったんだよ。ジョンが「So pleeeeease...♪♪」と歌った後にハーモニカを吹く準備をし、僕が♪「love me do…♪と歌う途中から、彼のハーモニカが「Waahhh wahhhh wahhhhhh」と入る。ライヴ録りで、当時はレコーディングでもオーバー・ダブじゃなかったんだ。そんなわけで突然僕にこの大役が回ってきた。僕らの最初のレコードでだよ。すべてのバッキングが止まる瞬間、スポットライトをあてられた僕が『love me doooo』と歌う、今でもあのレコードを聞くと僕の声が震えてるのが分かる。僕はすっかり怖気づいちゃってね。僕らがリヴァプールに帰って、ザ・ビッグ・スリー (The Big Three) のジョニー・グスタフスン (Johnny Gustafson) のその話した時、彼が『そこはやっぱりジョンに歌わすべきだったよ!』って。確かにジョンの方が適役だったんだよ。僕より低い声が出せたから、もっとブルージーになったと思うよ。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)


1962年9月11日<昭和37年(火)>


1962年9月11日ビートルズは、1962年9月4日のレコーディングセッションでの『How Do You Do It』と『Love Me Do』の録音に続き、デビューシングルのレコーディングのためロンドン・アビーロード・E.M.I.スタジオに再び戻って来ます。、

ロン・リチャーズは語ります、「『How Do You Do It』と『Love Me Do』はマーティンとスミスの手で9月4日中にミキシングを完成させ、翌朝マーティンとエプスタインが聴くためのアセテート盤を作った。ノーマン・スミスは『ポールはリンゴのドラミングは良くなかったと言っていたよ』と僕に言ってくれた。マーティンは『How Do You Do It』で行こうと決めていたようだが。最初的には『私も彼らの意見を聞き入れ『Love Me Do』を採ったよ、あれはとても好い曲だと』言っていた。マーティンも僕もグループのファースト・シングルだけに、あくまでも納得のいくものを作る必要があった。でも、『Love Me Do』のオリジナル・バージョンは、ドラム・サウンドが良くなかったんだよ。マーティンはこの日のセッション前半は参加できないことが分かっていた。だから前半は僕が唯一のプロデューサーだった。それで、録り直しの時はアンディ・ホワイトを雇ったんだよ。彼は腕のいいドラマーでたびたび彼を使っていた。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)

この日、E.M.I.の要請にて、5ポンド15シリング(当時の標準的な日当)の報酬でこの仕事を受けることとなったアンディ・ホワイトは語ります、「彼らのことはすでに知っていた。僕のワイフのリン・コーネルが同じリヴァプール出身のヴァーノンズ・ガールズと云うバンドに所属していたので、冷たくされるかなあ、と思ったけど、彼らは凄く感じが良くて、冗談を言い合った。あの頃大抵のグループが。アメリカの曲や作曲家の書いた曲をカバーしていたから、彼らが自作の曲やっているのには感心したよ。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)」。

レコーディングセッションは、ロン・リチャードがプロデュースの下、午後5時から始まり、ジョージ・マーティンも途中から参加し、午後6時45分には完了します。

ロン・リチャーズは語ります、「リンゴはコントロール・ルームの僕の隣に大人しく座っていたよ。そこで僕は『P.S.I Love You』でマラカスを振ってくれまいか!?』と頼んだ。リンゴは素敵な奴だ。いつもおっとり構えてる。リンゴは『何かして欲しいことがあれがやるよ、なのもやらなくていい??うん、分かった』って、こんな感じさ。『オレが!オレが!』みたいなところが全然ないんだ。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)

そして、この日リンゴ・スターは『PS I Love You』ではマラカスに、『Love Me Do』ではタンバリンの演奏を担当します。

リンゴが語ります、「E.M.I.でのレコーディングに僕が初めて参加したのは9月で、ジョージ・マーティンのために何曲かやったんだ。「プリーズ・プリーズ・ミー」もやったよ。僕が何故覚えてるかって言うと。レコーディングの時、僕は片手にマラカス、片手にタンバリンを持って、バス・ドラムをやってたからね。そのせいで、一週間後に「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングに行った時、ジョージは“プロ”のアンディ・ホワイトを使ったんだと思うな。どっちみち、ピート・ベストの代わりってことで、最初からそいつがやることになってたんだけどね。彼はもう危険な橋を渡りたくなかったんだろうね。そこへちょうど僕がはさまっちゃったわけ。僕が、僕らが北部出身だと云うのでちょっと変な反応をしていたジョージだけど、僕に来ないかとOK!!をくれ、レコーディングに参加し、この人にこのチャンスにかけてみようと思ってたから、彼に信頼されてないって分かって、僕はがっくりきたね。やる気満々で行ったのに、『プロのドラマーがいるから』って言われたんだ。彼にはその後、何度も謝られたけど、あれはひどいよ。あのことを僕は何年も恨んでた。いまだに完全に許しちゃいないからね(笑)・・・と、そんなわけで、「ラヴ・ミー・ドゥ」のシングルではアンディがドラムをやってる。アルバムは僕がやったけど。アンディはそんなに大したことないから、アルバム用にやる時はコピーしようがなかった。その後はすべて僕がドラムをやってる。まあ、『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』とか数曲は除くけどね。」。(書籍『Anthology』抜粋参照)

ポールがリンゴについて語ります、「なんてことだ!ジョージ・マーティンはリンゴを気に入らなかった。確かにあの頃のリンゴは、あんまりビートが正確じゃなかった。今じゃ完璧だけね。いつのセッションの時だって彼の貢献度は大きかった、だからこそ僕らは彼を選んだんだよ。でも、ジョージからすれば、セッション・ドラマーほどきっちり正確じゃなかったわけだ。それでリンゴはデビュー・シングルから外されてしまった。ジョージが『ちょっといいかな!?』って来てね、僕が『何?』って答えると、『いやぁ~・・リンゴはやめよう。』って。彼は僕にこう言ったんだ、『このレコードでは他のドラマーを使いたい』だってさ。その決定を受け入れるのはものすごく辛かった。『リンゴがドラマーでなきゃ困る。僕らは彼のことを失いたくない』って言ったんだよ。だけどジョージは譲らなくて、結局リンゴはデビュー・シングルで叩けなくなった。彼がやったのはタンバリンだけだ。リンゴはずっとあの痛手を乗り越えらなかったと思う。リヴァプールに戻ると、みんなに『ロンドンはどうだった?』って訊かれるだろ。僕らはいつも、『B面は好いよ』って言ってた。リンゴはA面が好きだとはどうしても言えなかった。自分が参加していないんだからね。リンゴのショックは大きかったはずだよ。」。(書籍『Anthology』抜粋参照)

1962年9月11日、ビートルズはこの日『PS I Love You』を10テイク、『Love Me Do』18テイクを録音します。

また、この日のセッションで行った『Please Please Me』に関してジョージ・マーティンは語ります、「『Please Please Me』はあの段階では退屈な曲だった。とてもスローでヴォーカルはブルージーで、ロイ・オービンソのなんばーみたいだったよ。テンポを速めなくっちゃ使えないと思ったよ・セッション後、テンポを上げてタイトなハーモニカをつければパットした曲になるだろう。そしたら次のセッションでやろう」・・ロン・チャールズはこれを裏付けます、「セッションの後、コントロール・ルームの外で廊下で、マーティンがこう言ってたんだ。『「Please Please Me」は今はよくないが、捨ててしまうにはおしい曲だ、保留にしておこう』とね。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)

アンディ・ホワイトは当時のことを2012年、『Daily Record』紙のインタビューでこう話しします、「僕はロンドンでよくテレビの仕事をしていたんだ。ある金曜日、次の月曜日EMIで3時間の仕事ができるかって電話があった。それしか知らされなかった。ザ・ビートルズの名前は聞いたことあったよ。僕の妻がリバプール出身で、その名前を出していたから。でも、彼らのことはよく知らなかった。本当に楽しい経験だったし、彼らの曲は凄いと思った。独自のものだったし、新しかった。当時はアメリカの音楽をコピーしたものばかりだったんだ。それで成功していた。でも、彼らがやっていることは新しく、ほかとは違いとてもスペシャルだって言えた。でも、それがその後、どれくらいスペシャルになるのかは、当時わからなかったけどね。(Daily Record)」。

1962年9月11日のセッション終了後、最良のテイクがモノラルにミックスダウンされ、E.M.I.は『Love Me Do/PS I Love You』をビートルズのデビューシングルとしてプレ・プレスを開始します。

当初のプレスではリンゴがドラムを担当する9月4日の『Love Me Do』が採用され、後のプレスではアンディ・ホワイトのバージョンになります。

『Please Please Me」に関しては、1962年にはレコード・リリースの原盤が出来上がると、その日のテープは処分されるのがンツウジョウダッタノデ、ロイ・オービンソン風の『Pleas Pleas Me』のテープは破棄されます。

ジョージ・マーティンは語ります、「アウトテイクまでは取っておけなかったんだよ・マスター・テープを保管するだけでも、場所がなくて困ったくらいだから」。

幸いこの方針は1963年に改められ、以降はほとんどのセッション・テープが保存されるようになり、今日まで残されています。

『Anthology 1』に収録される『Please Please Me』は、9月11日の音源とクレジットされていますが、ロイ・オービンソん風ではなく通常のスピードの演奏であるため、同年11月26日のセッションの音源であると推測されます。

当時、ロンドン、アビイ・ロード・EMIスタジオでは毎週には製作会議が開かれ、発売が予定されているレコードを試聴する日でもあります。

これは、営業担当の12人が出席し、その出席者にはこれから聴かされる曲のアーティストは知らされず、その場で今聴いたばかりの曲についての判定を彼ら自身が下すと云うシステムで、多くの曲の中に、当然ビートルズの演奏した「Love Me Do」もあり、この曲に関しては、評価は分かれる!と云うより、むしろ殆どが否定的な意見が飛び交います。

ビートルズの「Love Me Do」のような曲は、全員がこれまで全く聴いたこともない曲調なので、戸惑いが先行する作品と捉えられたわけです。

しかし、この場の議長であるロン・ホワイトは、この曲を気に入ります。

ジョージ・マーティンの手によるものであると云うことも彼に迷いを生じさせない一因となり、結局、このレコードは「評価すべきだ」という評価に至ります。

ジョージ・マーティンの大きな影が全員を動かしたとも云えます。

ロン・ホワイトは、政策会議後に聞かされるグループ名に聞き覚えおがあり、オフィスに戻り記憶を辿ると・・「数か月にブライアン・エプスタインと云う男が売り込みに来たグループの名が『ビートルズ』と云う名前ではなかったか!」・・彼の脳裏に、さまざまな思いが駆けめぐります。

「あの時はジョージ・マーティンが関与していなかったのだ。」と回想する彼は、ふと我に返り「自分たちが否定したグループを最も信頼しているあのジョージマーティンが評価したという事実」に愕然します。

困惑を隠せないロン・ホワイトは、エプスタインに「私は過去に自らが下した評価を恥じています。今更ながら申しわけなく思います。今回の曲は誠に素晴らしく、マーティンさんからも彼らのセンスの良さと聞いています。ビートルズと契約が交わされたことは私どもにとって有意義で喜ばしいことです。云々...」なのと云うこれ以上はないと思える表現で記した「詫び状」に近い手紙を出します。

しかし、彼の一番の気掛かりは、天下のEMIが、組織内に混乱があると思われることで、追記として「今回、私が手紙を差し上げましたのは、貴殿からご覧になれば、我々の組織の異常とも思われるに違いない事態を釈明したいと考えたからに他なりません。私たちが真剣にレコードを聴いたことは誓います。しかし、製作部長といえども、意見が変わるということは、貴殿にもご理解いただけることと存じます」とも記します。

この手紙にエプスタインは、「こちらこそ、感謝以外の何物でも無く、最初に却下されたことやその時のやり取りに関して不快に思ったことは一切御座いません。また、御社の内部組織に関しても一切の疑問は無く、社内の異状事態などとは考えもおりません...云々。」と記す感謝の手紙を折り返し出し、ホワイトの不安を取り除きます。

そして、 1962年 (昭和37年) 10月2日(火)ビートルズはデビューシングル「Love me Do / P.S,I Love You)」を発売します。



       《 Single"Love me Do"から"Please Please Me"へ  》


1962年 (昭和37年) 10月2日(火)に発表された「Love me Do」は、ブライアン・エプスタインにとって、そしてビートルズにとっては絶対にヒットさせなければならない曲で、彼はその為にあらゆることを考え、熱心に曲を紹介ます。

彼の謙虚なところは「ビートルズはあくまでも自然な勢いで世間に知られて欲しい。この曲も同様で売り込むつもりは無い!」と明言し、「激しい売り込み」を否定する発言です。

「Love Me Do」は大企業のロンドンのEMI社から発売されたと云うだけあり、全国に注目を浴びることとなります。

「Love Me Do」と云う曲は、世間のイメージでは「かなり風変わりな曲」と言われることが多い中、発売当初のイギリスのヒットチャートでの記録は最高17位まで達しますが、大ヒットと云う訳には行きません。

1962年10月24日の全国チャートでは48位となり少しずつ人々に浸透して行きます。

ビルボード(Billboard)誌では、1964年5月30日に週間ランキング第1位を獲得、ビルボード誌1964年年間ランキングでは第14位、「キャッシュボックス」誌でも最高位第1位を獲得し、1964年度年間ランキングでは13位、アメリカでは100万枚以上のセールスを記録します。

イギリスでは、デビュー20周年を記念して1982年に再発された時は最高位第4位となり最終的にはトータルで30万枚以上のセールスを記録することになります。

このシングルはオリジナル盤・リイシュー盤ともに、パーロフォンの赤ラベルと黒ラベルが存在しており、オリジナル盤の方はいずれも希少価値の高いレコードで、特に黒ラベルは入手困難であり、ビートルズコレクターの間では人気アイテムとなります。

しかし、ブライアンの回りは彼への心配が募り、忠告される日々を迎えます。

「あんな若者たちと関わり続けると大変なことになる!」

「音楽業界の連中など信じるな!」

彼の両親に至っては「ビートルズがエルヴィス・プレスリーよりもビッグになるなんて信じられない!」と告げ、彼の将来を案じます。

これらは、至極当たり前の接し方には違いありません。

ジョージ・マーティンにもまた別の「やらなければならないこと」が存在し、それは、「マーティン自らが評価し、契約したリバプールの若者達が、間違いなく素晴らしかったと云うことの証明」です。

それは言いかえれば、デビュー曲「Love Me Do」で注目を浴びたからには、次は彼らに大ヒット曲を与えなければならないと云う使命です。 

ビートルズにとって、「ジョージ・マーティンとの出会い」は必然ではあるものの「幸運」と云う言葉が適切でしょう。

何も考えずに行動している者同士では、「普通」こうは行かないはずです。

そして、ジョージ・マーティンは、ファースト・スングル「Love me Do」に続き、セカンド・シングルの候補を挙げます。

マーティンは、一度封印した「How Do You Do It」を提案しますが、ビートルズはマーティンが用意したこの曲にまたも難色を示し、対抗曲として「Please Please Me」と云うオリジナル曲を提案します。

今ならば多くの人が「なるほどあの曲ならば、ヒット間違いなしだ!」と納得されるでしょうが、ジョンが作ったこの曲はこの時まったくと云って使い物にならない作品で、マーティンはこの曲に違和感を覚えます。

ジョージ・マーティンは語ります、「ビング・クロスビーの「Please」と云う古い曲からタイトルを引用した云う『Please Please me』を初めて聴いた時、ジョンはロイ・オービソン風のファルセット唱法で歌った。スローで、もても悲しげで、全く売れそうもなかったと感じた」。

しかし、ジョージ・マーティン・マジックがここから始ります。

マーティンは「このままの曲調では使えないが、リズムをアレンジし、テンポを上げればヒットする可能性はある」と提案し、彼らも受け入れます。

「Please Please me」はこうした経緯により、今私たちの前に現れることになります。

1962年11月26日、ビートルズはEMIスタジオ(通称:アビーロード第2スタジオ)で「Please Please Me / Ask Me Why」を録音をすることになるのですが、その前にこの曲の注目すべき点を少し書かせて頂きます。

この曲をモニターヘッドホンなどで聴いて頂くとよく分かるとは思いますが、ベースとヴォーカルそしてコーラスが結構複雑な構成で仕上げられています。

演奏全体の印象としてジョンの素晴らしいハーモニカが目立ち、ギターの音が聴き取りにくい感じに仕上がっています。

ここで注目べきはポールのベースとジョージのギターで、「Come on」のコードA ⇒ F#m ⇒ C#m ⇒ A のところでは、ジョージが意図的に「Come on」に合わせ BとC#を弾き、ポールのベースが3回目のC#mのところでは、主音と5度の音をひっくり返し G# ⇒ C# と弾いていることです。

これはビートルズの音創りが当たり前でない証拠で、簡単ではありますが、工夫を凝らしています。

エンディングの E ⇒ G ⇒ C ⇒ B ⇒ E と云うコードも曲の終わりを意識させる音創りの奥深さが感じられます。

そしてボーカルでは、曲の冒頭の「Last night I said these words to my girl」と云う個所のメロをポールはEの音だけで歌い、ジョンはそのEの音から D# ⇒ C# ⇒ B と移って行き、ポールの少し揺れながらの声とジョンの安定した声がマッチし、素晴らしいハーモニーを作り出しています。

また、3部にコーラスになる部分でもジョンとポールの高低音パートが入れ替わり、その下をジョージがコーラスをつけています。

このように3人同時に歌う個所では互いが意識してトーンを近づけている感が強く、完全に一つの固まりでスピーカー(ヘッドホン)から飛び出てきます。

デュエットになるエンディング「Please please me, who, yeah, like I please you…」の部分も「please」と「you」の高低音がジョンとポールで入れ替わります。

この複雑な入れ替わりハーモニーと3部コーラスは、ビートルズの大きな特徴で、後に発表される「From me To You」や「I Wont Horld Your Hand」などでも多用されることとなります。

サビのところのジョンのボーカルの合間に「In my heart」とバックが入りますが、これもこの曲で重要な雰囲気作りの個所で、マーティンのアイデアかもしれません。(ビートルズ大研究から引用)

1962年11月26日、ビートルズはロンドンのセント・ジョンズ・ウッド・アビー・ロード3番にあるEMIスタジオ(通称:アビーロード第2スタジオ)での3時間のレコーディング・セッションを行い、セカンド・シングル「Please Please Me / Ask Me Why」の録音を開始します。

1時間のリハーサルが用意されていたため、ビートルズは午後6時にスタジオに姿を現します。

そして、午後7時、「Please Please Me」のレコーディングが開始されます。

まずは、あの印象的なハーモニカ抜きで録音されます。

それは、この曲は歌いながらハーモニカを吹くことができる構成ではないからで、そのパートはその日オ-バーダブされます。

ハーモニカの編集用を含め『Pleas Pleas me』は18テイク録音されます。

レコーディングが終了すると、ジョージ・マーティンはトーク・バックを使いこう叫びます、「初のナンバー1ヒット曲、間違いなしだ!」。

「Please Please Me」収録後、ビートルズはB面「Ask Me Why」のレコーディングに開始します。

この曲は、6テイクを録り、これにてこの2曲は完成に至ります。

マーティンは放った「初のナンバー1ヒット曲、間違いなしだ!」と云う言葉の奥には、マーティンの想いと予感が多分にあったのでしょう。

1962年10月30日、「Please Please me / Ask Me Why」のリミックス作業は行われます。

この日はまず「Please Please Me」がミックス・ダウンされ、そのモノラルミックスはシングル盤とアルバム「Please Please Me」の両方に収録、その後「Ask Me Why」の第6テイクがモノラルにミックス・ダウンされます。

この作業の開始・終了時間は記録に無く、またビートルズは、昼はキャバーン・クラブのランチタイムショーに出演し、夜はニュートン=ル=ウィローズのタウン・ホールに出演していたため、この場にはおらず、リミックス作業に参加するようになるのは、ずっと後の話になります。

このシングルは1963年1月11日に英国で発売されますが、メロディ・メーカー紙、NME紙、ディスク紙では確かに発売6週間でNo.1を獲得します。

しかし、、ニュー・レコード・ミラー紙 (New Record Mirror) が指標としていたレコード小売店チャートでは2位どまりとなり、正真正銘のNo.1をビートルズが獲得するのは「From Me To You」以降となります。

ジョージ・マーティンは語ります、「自分が高く評価したビートルズは、E.M.I.では評価されなかった。ビートルズとEMIの契約に関しては、トップも批判的で、保守的な考え方の持ち主である宣伝部長も『マーティンは「今まで見たことのない可能性を秘めているグループ」だと言うが、ビートルズには何の将来性も見い出せない!』と言う始末だった。」。

ビートルズのデビュー曲「Love Me Do」は、E.M.I.としてヒットさせようという努力がなされず、放置とも云える状態になります。

いつの世も、グループやレコードをヒットさせるためには、当然、大変な企業努力が必要であり、全国的に宣伝するには、かなりの出費を覚悟せねばなりません。

当時の宣伝部長はあまりにも保守的過ぎて、その決断ができなかったと云うことです。

「Love Me Do」がごく限定されたラジオでのオン・エアしかされなかったのは、このような背景があったせいだと推測されます。

ブライアン・エプスタインは、ほとんど宣伝しようともしないE.M.I.に失望し、マーティンに相談します、「ビートルズの次の曲は出版社に話を持ちかけて、そこで宣伝してもらうようにしたい」。

E.M.I.の宣伝部門が殆ど動いていなことの知ってたマーティンは、冷静かつ積極的にアドバイスします、「ブライアン、僕はアメリカの会社よりもイギリスの会社の方がいいと思うよ。出来れば、とてもハングリーな人間がベストだ。ビートルズや君のために一生懸命やってくれる会社を探すんだよ。」。

エプスタインはマーティンに告げます、「僕はエルヴス・プレスリーの曲を出版している“ヒル&レンジ社”との契約を考えいる。あなたはどう思いますか?」、それを聞いたマーティンは、「ヒル&レンジは、君達がいなくても全然困らない。彼らにはエルヴィス・プレスリーがいるから、君達はきっと重要視されないと思うよ」とブライアンに再びアドバイスします。

エプスタインは、ヒル&レンジ社の他にこれと云う会社に心当たりが無く、ここでもジョージ・マーティン相談するとことになります。

エプスタインは語ります、「これまで事あるごとに僕たちに幸運をもたらしてくれたジョージ・マーティンに話しを聞いてもらうしかなかった。彼はアメリカの出版社の人間とイギリスの出版社二人、計三人を紹介してくれた。」。

そして、マーティンの紹介で、イギリス資本の出版社を経営する“ディック・ジェイム”に話を持ちかけることとなります。

ディック・ジェイムズは、マーティンととても親しい間柄で、ビートルズのデビューにふさわしい曲をマーティンが探している時、「How Do You Do It」を提供してくれた人物であり、マーティンのプロデュースの下、歌手活動の経験も積んだ人物で、テレビドラマの主題歌をヒットさせことも多々あり、二人は強い信頼関係で結ばれていたのです。

ディック・ジェイムズは語ります、「ジョージ・マーティン氏がその依頼で僕に電話してきた。尊敬する彼が選んだグループなので、素晴らしいことは間違いないはず、使用できたよ。」。

この時、エプスタインも独自で動いており、EMI傘下の子会社の出版社の幹部と会う約束を取り付けますが、約束の時間にその会社を訪れた彼を、担当者は30分近く待たせます。

エプスタインは語ります、「約束を守れない人間ではダメだと判断し、その会社の秘書にその旨を伝え、その足でディック・ジェイムズの会社に向かった」。

            ★マーティンとブライアンの間に居るのが「ディック・ジェイムズ」です。

ディック・ジェイムズの会社に向かったブライアンは、彼のオフィスに、約束の時間より随分早く着いてしまいます。

ブライアンは受付の女性に、「ここで待たせて頂けますか」と告げると、彼女はジェイムズに連絡し、ジェイムズは待っていましたとばかりにオフィスから現われ、ブライアンを笑顔で迎えます。

ディック・ジェイムズは、マーティンの云うところの「まさにハングリーな心情で、ブライアン、そしてビートルズのために全力を注いでくれる存在」だったようで、歌手としてそれなりのヒット曲も出した過去もあり、曲を作り上げる仕事にも係わりそこでもヒット曲を生み出し、約1年前に現役を引退し、出版社として独立したばかりの44歳の彼へのオファーはチャンスとも云える出来事だったのです。

ディック・ジェームズは語ります、「あの時、すぐに、出来たばかりのシングルレコード『Please Pleas me』を聴かせてくれとブラインに告げたんだよ、聴き終えた僕は感動したね。これは行けると思ったよ。」。

彼もまた、ヒット曲を見い出す才能に長けた男だったと云うことです。

この時、ジェイムズは思いがけない行動をとります。

エプスタインが長期契約の話を持ちかけた時、「please please Me」が間違いなくナンバーワンになると信じたジェイムズはその場で歌手だった頃の友人関係や各方面に電話をかけ始めます。

エプスタインはじっと見守ります。

ジェイムズはフィリップ・ジョーンズと云うテレビ番組のプロデューサーに電話し、頼みごとをします、「リバプール出身の素晴らしいグループがいる。彼らを土曜のショーに出演させてくれないか」。

しかし、一流のプロデューサーであるジョーンズはこう返答します、「如何に友人と云えど、自分で彼らの実力を確認するまでは、予定を変更してまで特別に出演させるわけにはいかない」。

しかし、それで引き下がるジェイムズではありません。

彼は、「Please Please Me」を電話を通して聴かせると云う行動に出ます。

これは、如何に彼が「Please Please Me」に感激したかを物語ります。

曲を聴き終えた友人ジョーンズは即答します、「とても素晴らしいサウンドだ。合格だよ!今週の土曜のショーに出演させよう!」。

電話を終えたジェイムズはブライアンに伝えます、「彼らの土曜の予定はどうなっている?空いているか確認して欲しい。テレビに出られるんだ!」。

そしてビートルズにジョーンズが担当する全国ネット人気番組「サンク・ユア・ラッキー・スターズ」の1963年1月13日の出演予約が入ることとなります。

そして、周りの人を巻き込む奇跡がとうとう起こり始めます。

1963年1月13日の人気TV音楽番組『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』への出演は、ビートルズにとってこれまででもっとも重要なことだと云えるしょう。

『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』とは、ABCテレビがTVネットワークのために制作し、ミッドランドと北イングランドのエリアで放送され、撮影収録にはABCとATVの共同所有のバーミンガム・アストンにある「アルファ・スタジオを使い、ミッドランドでは平日に、ロンドンでは週末に放映される番組です。

この日ビートルズはその「アルファ・テレビジョン・スタジオ」で演奏、収録します。

当時の『サンク・ユア・ラッキー・スターズでは、通常出演者はスタジオの観衆を前にレコードに合わせてリップシンク (くちパク)するのが恒例で、1961年4月から出演している多くのミュージシャン同様、7組の出演者リストの最後の出演リストに書かれたビートルズも「Please Please Me」をリップシンクし、この時の収録は6日後の1963年1月19日(土)にオンエアされます。

番組での彼らの登場部分は前半最後で、CMの直前と云う記録が残っています。

当時『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』は非常に人気の高い番組で、前述通りビートルズが出演できたことは、大事件とも云え、また、彼らの出演を演出したディック・ジェームスは、ビートルズの曲を管理するようになってから巨万の富を蓄積することとなり、彼にとっても一大事件だと云うでしょう。

そして、このTV出演が起爆剤となりビートルズの快進撃は始まります。

下記写真は、1962年9月下旬の水曜日、リヴァプール埠頭周辺の倉庫にて、写真家レス・チャドウィックによって撮影されたものです。

そしてついに、1963年2月7日(Th)、ビートルズは待望のセカンド・シングル「Please Please Me / Ask me Why」をリリースします。

この曲の販売権のオファーを受けていたE.M.I.のアメリカ・レーベルである「Capitpl Record」は突然その権利を辞退することをE.M.I.に申し出ます。

その後販売権は、国外のマスターをアメリカのレコード・レーベルに移すことを業務にしているE.M.I.系列子会社「Transglobal」に委託され、「Transglobal」は、「Atlantic」にオファーをするも受けてもらえず、最終的に「Vee-Jay」がアメリカでの販売を引き受けることになります。

これが、アメリカでのデビュー・シングルとなり、イギリスでは1963年2月25日、日本では1963年3月4日のリリースとなります。

面白いことに、最初のプレスでは「The Beattles」と記載されます。

このシングルはイギリスのレコード・リテイラー、ミュージック・ウィークでは最高2位、メロディー・メイカーで2週連続1位、ニュー・ミュージカル・エクスプレスで3週第2位、イギリスでは35万枚のセールス記録、アメリカのビルボード(Billborad)誌では、1964年3月14日に、週間ランキング最高位の第3位を獲得し、ビルボード誌1964年年間ランキングでは第36位、『キャッシュボックス』誌でも最高3位を記録し、年間ランキング37位を獲得します。

尚、B面には、イギリスでは3枚目のシングルとなった「フロム・ミー・トゥ・ユー」が収録され、アメリカでは100万枚以上のセールスを記録ます。

イギリス本国でのシングル盤はオリジナル盤・リイシュー盤ともに、パーロフォンの赤ラベルと黒ラベルが存在しており、オリジナル盤はいずれも希少価値の高く、特に赤ラベルのほうが入手困難であり、ビートルズ・コレクターの間では人気アイテムとなります。

作曲クレジットは前作のLennon-McCartneyからMcCartney-Lennonに変更された。この表記はアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』を挟み次作シングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」まで使用されることとなります。


<ポールが語る"Lennon=McCartney"の曲作りについて>


ビートルズのオリジナル曲の8割は作曲者が「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」とクレジット(Credit)されています。

ジョンとポールが作曲を始めたのはまだ学生だった10代の頃で、二人は良く学校をさぼりポールに家に行き、曲のアイデアを次々とノートに書き留めて行きます。

「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」と題されたそのノートは、現在ポールが所有しています。

アメリカのソングライターチーム、「ゴフィン=キング(Goffin=King)(ジェリー・ゴフィン=キャロル・キング)」に憧れた二人は、純粋に二人で共作した曲も、片方がメインでもう片方が手伝った曲も、どちらか一方が書いた曲も、全て「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」で発表しようと約束します。

この取り決めは1970年のビートルズ解散まで貫かれ、1969年のジョンのソロ「平和を我等に(Give Peace a Chance)」にまで適用されます。

興味深いことに、デビュー直前の一時期に限って「マッカートニー=レノン(McCartney=Lennon)」と云うクレジットが使われており、確かな理由や経緯は明らかにされていませんが、1963年7月のシングル「シー・ラヴズ・ユー(She Loves You)」以降は順序が決められ、ジョンの名前が先に来るようになります。

ポールは語ります、「僕とジョンは学校をさぼって、良く僕の家でギターを掻き鳴らしていた。父は働きに出ていたからここが一番いい場所なんだ。パイプに紅茶を詰め込んで吸ったこともある。味は良くなかったけど、大人の気分を味わっていたんだ。二人でアコースティック・ギターを持って、向かい合って吸った。曲を作ろうと自分の心を見つめる代わりに、目の前でプレイするジョンを見ている。まるで自分自身を映す鏡を見てるかのような、最高の時間だった。僕らは一緒に曲を作った。僕がノートに書きつけたタイトルはいつも『アナザー・レノン=マッカートニー・オリジナル(ANOTHER LENNON = MCCARTNEY ORIGINAL)』だった。次のページも『アナザー・レノン=マッカートニー・オリジナル』なんだ。ノートには歌詞とコード・ネームをメモしてるだけだ。カセットテープなんかまだなかったし、グランディグ社のテープレコーダーなんか買う金もなかった。だからメロディは頭に入れておかなければならない。バック・コーラスのところには"oh-"と云う印を付けた。他に書き方を知らなかったんだ。テープレコーダーを持っている友達がいたけど、僕らは録音することはほとんどなかった。まだ僕らが自分たちの曲に入れ込んでなかったせいもあるけど、ジョンと僕の間に、自分たちが覚えられないような曲を他の人が聴いて覚えられるわけがないと云う暗黙の了解があったからなんだ。」。(書籍『Beatles Gear』抜粋参照)