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The Beatles Story
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01. Please Please me (1963)
02. With The Beatles (1963)
03. A Hard Day's Night (1964)
04. Beatles For Sale (1964)
05. Help !
Let It Be (1970)
株式会社This Company
〒000-0000 東京都港区神道123
Tel: (123) 456-7890
ビートルズ物語 1962年
《デッカのオーディション落選とそのテープがもたらしたもの》
このオーディションは、1961年12月13日にマイク・スミス (Mike
Smith) が、デッカ・レコード会社のA&R(アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する職務)の代表としてキャバーン・クラブを訪れ、ビートルズの演奏を見た結果を受けて開催されたもので、その夜の彼らのパフォーマンスは、すぐにレコード契約を保証できるほどのものではありませんが、スミスは意欲的で、デッカのスタジオで改めてオーディションすることを彼らに提案したものです。
1962年1月1日、ジョン・レノン (John Lennon)、ポール・マッカートニー (Paul McCartney)、ジョージ・ハリソン (George Harrison)、ピート・ベスト (Pete Best) の4人は、ローディーのニール・アスピノール(Neil Aspinall) が運転するヴァンでリヴァプールから移動しますが(ブライアン・エプスタイン は列車移動)、吹雪の天候にたたられ、一行は午前11時からのオーディションにぎりぎりで間に合います。
そして、ロンドンのウェスト・ハムステッド区 (West Hampstead) ブロードハースト・ガーデンズ(Broadhurst Gardens) 165番にあるデッカ・レコード社で、ビートルズのオーディションは始まります。
オーディションにぎりぎりで間に合ったビートルとその一行に待っていたものは、デッカの担当者マイク・スミスからの待ちぼうけで、徹夜の新年会で遅れて来たスミスは、ビートルズの持ち込んだアンプ類の使用を認めず、スタジオの機器を使い、待望の「オーディション」は始まります。
スミスは大晦日の夜にハリキリ過ぎて遅れて来た上に、ビートルズの使ってるのは音が問題外だからデッカのアンプを使えと言ってきかず、ビートルズの神経を逆撫でてしまいます。
ビートルズは、15曲(「Like Dreamers Do」「Hello Little Girl」「Love Of The Loved」の3曲がレノン=マッカートニーの作品で、残り12曲はカバー曲)を演奏し、オーバー・ダビング無しの一発録りで、おおよそ1時間で全曲の録音を終了させます・・しかし、あえなく「落選」、ジョンは、この時の感想を率直に語っています、「これで終わりだなって、その時はほんとに思ったよ。ここまでだって」。
ビートルズはオーディションが終わると、デッカのプロデューサーである“マイク・スミス”に、「次のバンド『BRIAN POOLE AND THE TREMELOES(ブライアン・プール&ザ・トレメローズ)』の開始時刻を過ぎてしまった」とせかされスタジオの外へ出されます。
緊張のためにビートルズの演奏は最高とは言えないまでも、メンバー4人とブライアン・エプスタインは、このセッションがデッカとの契約に結びつくことを確信しますが、ブライアン・プール&ザ・トレメローズが合格したことを知らされ、その後、1月27日付のリバプール・エコー誌に短い記事が載ります。
「デッカのプロデューサーである“マイク・スミス”は、ビートルズはすごいバンドだと筆者に語った。30分以上に及ぶオーディションの模様をテープに録音しており、デッカのレーベルからぜひともデビューさせたいということである」と云う内容ですが、公式の理由としては「エプスタインさん、ギター・グループは消えゆく運命ですよ」と云うもので、この言葉は世間に広く知られ、ディック・ロウは後に「ビートルズを蹴落とした男」という悪名を背負うことになります。
しかしジョージ・ハリソンの推薦を受け、ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) と契約するのも彼だと云うことです。
↓↓ ( Decca_studio )↓↓
ジョージは語ります、「雪が降る中、デッカのスタジオに言ったのを覚えれいる。ただ、入って行って、アンプをセットして、演奏しただけ。あの頃のロックンロールの曲は、実際には古い曲ばかりだった。40年代とか50年代とか、みんながロックにハマっていた頃のやつさ。やるものがない時はそう云うのをやってたんだ。ジョー・ブラウンが『シーク・オブ・アラビー』のロックンロールバージョンを出してたね。彼は土曜のテレビ番組『シックス/ファイブ・スペシャル』や『オー・ボーイ!』凄く人気があった。僕はそのジョー・ブラウンのレコードをやって、『シー・オブアラビー』を歌った。ポールは『セペテンバー・イン・ザ・レイン』を歌った。それぞれがやりたいこと曲を選んだんだよ。グループのメンバー全員が歌うって云うのは当時は珍しかった。あの頃は、クリフ&シャドウズって具合に、どのグループでもリードボーカルを前面に出してた。他のメンバーは全員スーツに揃いのタイとチーフで決まった動きをしているだけ。その前にボーカルが一人立って歌ってるんだ。オーディションは何時間か続いた。それが終わると僕らはホテルに帰った。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
ジョンがブライアン・エプスタインを語ります①、「ブライン・エプスタインはこう言った『なあ、本当にもっと大きな場所でやりたいなら、変わらなきゃだめだ。ステージでものを食べるのも、汚い言葉を使うのも、煙草も、止めろ!』ってね。彼は僕らのイメージをクリーンにしようと考えていたんじゃなく、恰好が間違っているって言ったんだ。『そのままじゃいいところには絶対出れない』って。僕らはステージの上でも下でも、いつだって好きな格好をしていたからね。『ジーンズはあまりスマートじゃない、きっちとしたスラックスを履かないか』って彼は言ってたけど、いきなりかしこまった格好をさせようとしたんじゃないよ。彼は僕らに、個性ってものを分からせようとしたんだ。僕らにすればブライアンはエキスパートだった。だってもともと店をやってただろ。店を持ってる人間ならみんな正しいはずだって思った。それに車にでかい家、それが全部父親のだろうと関係ない。こいつこそ理想の人間だって僕らは思ったのさ。『成功するか、ステージでチキンを食べ続けるか、どっちだ!?」と云う彼の考えを僕らは尊重した。チーズ・ロールやジャム・パンをかじるのもやめた。もっと自分たちのやってることを考え、遅刻しないようにして洒落た格好をするようになった。(書籍『Anthology』抜粋参照)』」。
ジョンがブライン・エプスタインを語ります②、「彼はあちこちに行ってニコニコし、新聞屋などにも気に入られた。みんな彼のことは認めていたよ。宣伝してもらうのはゲームになるのさ。僕らは地元の新聞社や音楽誌の事務所を回って、記事を書いてくれるように頼んだ。そうしなきゃダメなんだ。最高のステージをやるには当然のことだけどね。記者の前ではいい顔をしなきゃならなかった。たとえ相手がすごい傲慢な奴で、『恩を売ってるんだぞ!』って態度だとしてもね。僕らはそいつらに調子を合わせてやたよ。『取材をしてくれてありがとう!!』みたいな態度でね。そい云う点では見事に二重人格だったね。ブライアンはずっとリヴァプールとロンドンを往復してた。そしてある時ロンドンから戻ってくると、こう言ったんだ『オーディションだぞ!』って。僕らは大喜びだったよ。それはデッカのオーディションだった。彼は『マイク・スミス』とか云う奴と話をつけていて、僕らはそこへ行くことになった。それで色々曲をやったんだけど、不安と緊張でガチガチでね、それがしっかり演奏にも出てた。でも、最初は不安だったものの、そのうち気持ちも落ち着いて来た。『トゥー・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー』って云うフェイル・スペクターの曲と持ち歌をいくつかやった。キャバーンのステージをそのまま再現したようなもので、何曲か外したようなね。20曲くらいやったと思う。テープはデッカとバイの送ったけど、バイには行かなかった。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
★デッカA&R部のトップだったディック・ロウ (Dick Rowe) は後にこう語っています、「私はマイクに『どちらにするのか君が決めろ』と言った。ビートルズか、それともトレメローズか、それは彼次第だった。彼は『どちらもいいんです。ただ一方は地元のグループで、他方はリヴァプールからのグループです。』と言った。そして地元のクループを取った方が良いという結論になった。彼らはダグナム (Dagenham) から来ていたので、仕事がやりやすいし親密でいられると考えた。」。
★マイク・スミスは語ります、「経験豊富な彼が、どちらを良いと判断するか知りたかったが、彼は何も意見を言わなかった。ディックは私に『君が決めろ』と言った。あとになってディックは、ビートルズがシャドウズに似ていたので契約を交わさなかったと発言したが、まったくおかしな話だ……歌も聴いていないのに」。
両者の見解と解釈や発言はかみ合っていません。
そして同年2月初め、「オーディション不合格」の知らせがブライアンの元に届きます。
理由は「シャドウズに似ている。ギターバンドは売れない」と云うもの。
★釈然としないブライアン・エプスタインはデッカ本社まで押しかけ、「デッカがリリースするビートルズのすべてのシングル盤に付き、僕が3,000枚の買い取りを保証する」と販売部に約束します。
★そのことを知らされていないディックは丁寧さを装いつつも高慢な態度でブライアンを突き返しこの発言を言い放ちます、「ビートルズは成功しませんよ。エプスタインさん。我々にはわかるんです。あなたはリバプールで立派なレコード店を経営していらっしゃる。なにがご不満なのですか」。
ディック・ロウがブラインの発言を知らされていたなら、歴史はまったく違っていたかもしれません。
★冷静さを失ったブライアンは、ディックにこう言い返します、「この子たちは今に爆発的な成功を収めますよ。いずれエルビス・プレスリーより大物になると断言します」。
★後にディック・ロウは語っています、「あの時点では私はそのことを聞いていなかった。当時のレコード業界の常識を考えると、3,000枚の売上げが確実ということになれば、たとえそれが何者であっても、そのレコードを出さざるを得なかっただろう。」。
ビートルズのロディ担当・ニール・アスピノールは語ります、「1961年の大晦日にロンドンに行くことになったんだ。デッカ・レコードのオーディションがあったからね。ミッドドランドのどこかで道を間違った。その大晦日が僕らのロンドン初体験だった。全員が一文無し。その上、雪が降って凄い寒いときてる。シャフツベリー・アベニューあたりに行ってみたんだ。買いたいものばかりで、目を見張ったね。角に靴屋のアネロ&ダビデがあって、洋服のセシル・ジーがあって、セント・ガイルス・サーカスでクラブに入った。退屈だからすぐに出ちゃったよ。女の格好をしている髭の生えたのがいたりしてさ。飢え死にしそうだったからレストランに入ったんだけど、僕らの持ってる金じゃスープしか頼めなかった。それで追い出されて、ソーホー行って何とかしのいだ。ロンドンはほんとエキサイティングで、全てが新しかったね。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
↓↓(Decca Audition Bootleg & Decca studio 3 - West Hampstead)↓↓
ジョージは語ります、「僕らがロンドンで逢ったグループが、その後『ビートル・ブーツ』として知られるようになるブーツを履いててね。そう云うブーツを始めてみたのがその時だった。先が柔らかいんだよ。チャリング・クロス・ロードのアネロ&ダビデって云う店で作られてるものだった。デッカからいつまでたっても何も言ってこない。ブライアンは何度もせっついていたんだけどね。それでも結局は断られた。おかしなことに、断ってきたのがあの手の“ダン・ド・ダン”的なバンドをやっていたトニー・ミーハンでね。彼、その頃はデッカのディレクターとして成功してた。それでも有名な話がある。ブライアン・エプスタインが彼をつかまえて、僕らを気に入ったかどうかを聞き出そうとした。『僕らは契約できるのか?』って、すると帰ってきた言葉が、『ミスター・エプスタイン、私は忙しいんです』。奴はまだ若造だったんだぜ。何年も後で知ったんだけど、彼らがあの時採用したのは『ブライアン・トレメローズ』だった。デッカの社長のディック・ロウは鋭い予想をしていたんだだ。『ギター・バンドはもう終わりですよ、ミスター・エプスタインさん』だってさ。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
ジョンは語ります、「リヴァプールに戻って待ち続けた。そしてようやく、通らなかったことが分かったんだ。『これで終わりだな』って、その時はほんとに思ったよ。『ここまでだ』って。『ブルージーすぎる』とか『ロックンロール色が強すぎる、ロックはもう過去の音楽だ』とか、いつもそう云うことを言われてた。ハンブルグでドイツの会社のオーディションを受けた時にも、『ロックやブルースはやめろ、他のものにしろ』って言われた。みんなロックは死んだと思っているんだよ。でも、間違ったのは彼らの方だよ(1977)。ポールは『今聴けばどうして落ちたのか分かる。あんまり出来が良くない。』って言うけど、テープを聴いてみて、僕ならこれで断りはしないだろうね。問題無いと思うな。後半なんて、あの時代にこれだけできれば文句ないさ。当時はああいう音楽をやっている人間はそんなに無かった(1972)。デッカはすっかり洗練されたグループを期待してたんだろうね。でも、僕らがやったのはただのデモ・テープだった。僕らの将来を見るべきだね(1967)。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
ポールは語ります、「ジョンとは少し意見が違うけど、今テープを聴けば、どうして落ちたのか分かる。あんまり出来が良くない。とはいえ、凄く面白くてオリジナリティがあるのも入ってた。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
「ビートルズ・デッカ・オーディション」とは、一般的に想像される生演奏を審査してのオーディションではなく、「権限のある」デッカ社内の人間に聞かせるためにサンプル・テープを録音するセッションの事で、内容は1962年1月1日に行われた、セミプロによる失敗のほとんどない優秀な演奏であり、この驚異的な録音は1962年の彼らの熱狂を唯一感じることのできるものです。
デッカ・オーディション落選後、エプスタインは、デッカ社から譲り受けた録音テープを持ち、友人であるロンドンのオックスフォード通り (Oxford Street) のHMVレコード店の店長を訪ねます。
彼は、もっと簡単に再生できる方法とオープンリールのテープからレコード盤を作ることをエプスタインに提案し、エプスタインが同意しすると、すぐにそのレコード店の上にあるスタジオとプレス工房にテープを持って行きます。
その録音テープを聴いたその店のエンジニアであるジム・フォイは、とても感動したと云います。
エプスタインが「その内の3曲はレノン=マッカートニーの自作だ」と伝えると、フォイは音楽出版のアードモア&ビーチウッド社 (EMIの子会社) のシド・コールマンにそのことを伝え、そしてコールマンはエプスタインに出版契約をオファーします。
しかし、エプスタインの優先すべきはビートルズのレコード会社への契約で、そこでコールマンはエプスタインとパーロフォン・レコード (Parlophone Record) のA&Rのトップを会わせる手はずを調え、これによりブライアン・エプスタインとEMI傘下のパーロフォン・レコードのヘッドであるジョージ・マーティン (George Martin)との面談が実現します。
ジョージ・マーティンは、1962年5月9日にブライアン・エプスタインと会談した際、ビートルズとレコーディング契約を結ぶことを承諾しますが、実際にサインするのは彼らを見聞してからだとエプスタインに告げます。
デッカの録音を聴き、かなり興味を感じたマーティンが、アビー・ロードでのオーディションをエプスタインに申し入れることとなったわけです。
E.M.Iスタジオ・オーディション
<1962年6月5日>ロンドンのアビイ・ロードにあるE.M.I.・スタジオ (Abbey Road Studios) での翌日午後7時からのレコーディング・セッションの前日、ビートルズはEMIレコーディング契約成功させるために、交通渋滞や悪天候など、あらゆる可能性を排除するためリヴァプールからロンドンに向けて車で出発させ、その夜にはロンドン市内に到着宿泊します。
<1962年6月6日>この日が、ビートルズがロンドンのセント・ジョンズ・ウッド (St. John's Wood) アビー・ロード (Abbey Road) 3番にあるEMIスタジオを初めて訪れた歴史的な日になります。
アビイ・ロード第2スタジオで午後7時~10時に行われたこのレコーディング・セッションは、所謂オーディションのようなもので、オーディションのメンバーである、ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリソン、ピート・ベストの4人は多くの曲をひと通りプレーしてウォーミングアップした後、本番の演奏を始め、『Besame Mucho』『Love Me Do』『PS I Love You』『Ask Me Why』の順に4曲、テープに収めます。
但し、正確なテイク数は現在でも分かっていません。
E.M.Iスタジオ・オーディション
ノーマン・スミスは語ります、「ビートルズの印象はルックス以外はあまりよくなかった。つまりジョンとポールのソングライターとしての資質はまったく聴き取ることはできなかった。彼らはちっぽけなVOX社製のアンプとスピーカーを持ってたが、それらは楽器の源音を再生できていなかった。言うまでもなくすべての音響技師はあるレベルの源音を欲しがる。それさえあれば後でいくらでも改良したり効果を加えたりできるからね。しかし僕らがビートルズの装置から得たものは大量のノイズやハム、あと正体不明の音だけだった。ポールの装置は最悪だった。その頃は残響を付加するために残響室 (echo chamber) という部屋があったが、僕は彼の音をなんとかテープに収められるレベルにするのに、第2スタジオの残響室にあったアンプとスピーカーを引っぱり出さなければならなかった。また、ジョンのギターアンプが振動してカタカタ鳴るのを、僕らは実際にひもで縛って止めた。それからピート・ベストのドラムのシンバルにも確か問題があったと思う。でも最終的に何とかすべてを整頓し、やっとのことでレコーディング開始にこぎつけた。」。
<左からリチャード・ランガム、ノーマン・スミス、ジョージ・マーティン