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The Beatles Story
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01. Please Please me (1963)
02. With The Beatles (1963)
03. A Hard Day's Night (1964)
04. Beatles For Sale (1964)
05. Help !
Let It Be (1970)
株式会社This Company
〒000-0000 東京都港区神道123
Tel: (123) 456-7890
【ビートルズ日本武道館公演舞台裏と終演後の彼らの自由な行動①】
《武道館公演第一回目ステージ終演後のビートルズの自由な行動①》
<1966年6月30日 PM8:05>
武道館公演第一回目ステージの11曲の演奏が終演し、ビートルズはステージから直接駐車場へ向かい、キャデラックでホテルに戻ることとなります。
勿論夕食は部屋でとります。
<1966年6月30日 PM9:30頃>
ビートルズのメンバーはスチームバスへと・・。
お風呂には入らなかったのでしょうか!?
<1966年6月30日 PM10:00頃>
ポール、ジョージ、リンゴの3人はホテル内の従業員用エレベーターを使って、地下一階の調理場を通り、ナイトクラブ「スターヒル」に現れます。
そこでは、ビブラトーン奏者の平岡精二氏のバンドが、演奏しており、彼らは言います、「ここで、僕たちも演奏してもいいかな!?」。
その場に居たお客さまに、店のマネージャーは事情を説明し、店を締め切り、彼らに飛び入り演奏をしてもらうこととなります。
その時は、ポールに合う「左利きのギター」はなかったようで、お得意の右利き用のベースをそのままひっくり返して左で弾いたのかもしれません。
リンゴは、ドラムを叩いたと思われます。
その時の演奏曲は不明ですが、ビートルズの生の演奏を間近で見、そして聴いた、その日のお客さんは本当に幸運だったことでしょう。
この時、ジョンは部屋でくつろいでいたのでしょうか?
ぐっすり眠っていたのでしょうか?
窓から見える景色に日本を感じていたのでしょうか?
その後、自由奔放なポールは真夜中に紅真珠の間にまたまた行き、そこにあったヒルトン特注の銀色のピアノを弾いています。
【ビートルズ日本武道館公演舞台裏と終演後の彼らの自由な行動②】
《武道館公演第一回目ステージ終演後のビートルズの自由な行動②》
<1966年7月1日 AM10:30頃>
6月30日AM10:00頃にメンバーのスーツを仕立てるため全員の採寸とデッサンを行ったテーラー山形屋の宮川氏が、スーツの仮縫いのため部屋に再訪問します。
デザインについてはビートルズからの要望は特に無く、宮川氏が全面的にまかされ、当時流行のコンチネンタルスタイルに仕上げます。
背広(スーツ)の本場ロンドンからやって来たビートルズが、なぜこんな忙しい間にわざわざ日本でスーツを仕立てたのかは全く不明です。
ちなみに「背広」の語源である"ロンドンのセビルロー通り"は、Rooftop Performanceが行われた(旧)アップルの本社(3 Savile Row)があった通りです。
仕立てたこの背広は、テーラー山形屋が7月3日の早朝に届け、メンバーが試着し購入します。
テーラー山形屋は、この背広を1着46,000円のところ35,000円に割り引きます。
当時、大卒初任給平均が24,900円の時代で、し、た。
【ビートルズ日本武道館公演舞台裏と終演後の彼らの自由な行動③】
《武道館公演第一回目ステージ終演後のビートルズの自由な行動③》
<1966年7月1日 AM11:00 頃>
ジョンはカメラマン・ロバート・ウイティカーに成りすまし、車でホテルを抜け出します。
南青山にある「北川象牙店」。
麻布材木町にある「朝日美術店」。
原宿にある「オリエンタル・バザー」などに、次々に立ち寄り買い物をしていきます。
漆塗りの彫り物・香炉・中国製飾り玉などを買ったされ、購入金額は合計で500万円くらいだったと言われています。
朝日美術店経営者だった「若山秀子氏」は語ります、「ジョンはピンクのキャデラックで突然やって来ました。店内で私とジョンが30分くらい話しているうちに、店の外に停めてあったピンクのキャデラックをビートルズファンが見つけ集まってきました。殺到という言葉の方が相応しいかもしれません。勿論、警察も飛んできました。そして、警察は「ジョン・レノンさん、あなたが店にいると、交通渋滞が起こるので店を出てくれませんか!」と言いました。しかし、店の前にはファンが殺到していたので、私はジョンを裏口から逃がしました。その時、『ここは、土足のままでいいの?』とジョンに聞かれたのを私は覚えています。」。
<1966年7月1日AM00:00頃>
ジョンはホテルに戻ります。
<1966年7月1日PM00:00頃>
朝日美術店、若山秀子氏はいくつか古美術品を持ちホテルの部屋へを訪問します。
若山秀子氏は「ビートルズは公演が終わって部屋に入るとすぐ靴を脱いでくつろいでいました。ジョンは骨董品を並べたところにすぐに駆け寄ってじっくりと眺め、次々とこれはどういうものか?と質問して来ました。ジョンが選ぶものはすべて良い物ばかりで、どこかで日本美術を観てきたのか?それとも直感なのか?びっくりしました」などと証言しています。
ジョンが一番気に入ったのは香炉で100万円で購入します。
【ビートルズ日本武道館公演舞台裏と終演後の彼らの自由な行動④】
《武道館公演第一回目ステージ終演後のビートルズの自由な行動④》
ジョンの次は、ポールです。
<1966年7月1日AM11:00頃>
ポールは、ロード・マネージャーであるマル・エバンスの動向で黒のトヨペットに乗り、ホテルを抜け出します。
車は明治神宮を通り、明治神宮外苑を抜けていきます。
そして皇居前広場に到着し・・もちろんポールは車から降ります。
皇居前広場を見渡し、二重橋まで歩いていきます。
ポールは散歩でもしてるかのように...。
しかし、追跡していた報道陣に囲まれてしまいます。
わずか5分間の散歩...。
そして!報道陣がポールに殺到しているところを、警察が見過ごすはずもありません。
警察は「ポールさん、申し訳けないですが、車に戻って下さい!」と告げます。
そして、ポールたちは車に乗り込みはホテルに戻って行きます。
ホテル到着AM11:40頃...ポールの外出はわずか45分足らずだったと云う事です。
【ビートルズ日本武道館公演舞台裏と終演後の彼らの自由な行動⑤】
《武道館公演第一回目ステージ終演後のビートルズの行動⑤》
<1966年7月1日>
PM1:00 日本のビートルズファンクラブ(BFC)会長と映画館松竹セントラル支配人である下山鉄三郎氏、通訳の会田公氏がビートルズを訪問します。
BFCはここで公認クラブとして認められ、日本のファンのために描いた絵をビートルズから受け取る約束をします。
下山はジョージから日航のハッピを譲り受けます。
PM2:00 日本武道館、昼の部開演、オープニングアクトが始まります。
PM3:00 ビートルズの公演(第2回)が始まります。
セットリストは1日目と同じで、日本テレビが収録し、PM3:50で終了し、メンバの4人とスタッフ一同は武道館の貴賓室で夜の部までの時間を過ごします。
PM6:30 日本武道館、夜の部開演、オープニングアクト始まります。
PM7:30 ビートルズの公演(第3回)が始まり、PM8:03に演し、一行は待機していた車でホテルに戻ります。
PM9:00 日本テレビ系列で特別番組『ザ・ビートルズ日本公演』が放送され、視聴率は関東59.8%、関西46.1%を記録し、街頭テレビでは通常9時までですが1時間延長され、新橋でおよそ200人、上野公園で80人が観ることとなります。
これは、この時間帯では日本放送史に残る記録です。
ちなみにこの放映は、ビートルズもエプスタインとともに部屋で観ています。
【ビートルズ日本武道館公演舞台裏と終演後の彼らの自由な行動⑥】
《武道館公演第一回目ステージ終演後のビートルズの行動⑥》
<1966年7月2日>
AM11:00 お土産業者が部屋を訪問し、ビートルズは土産物の購入や絵を描いて過ごします。
この時、ジョンはメガネを購入しています。
AM12:00 『ミュージックライフ』誌の星加ルミ子編集長と長谷部宏カメラマンが部屋を訪問します。
この二人は、単独で取材で来た唯一のマスコミです。
「『ミュージックライフ』誌、読者人気投票1位"ビートルズ!!"」を祝し、星加ルミ子編集長は、記念の盾をビートルズに手渡します。
星加ルミ子編集長は語ります。
「ジョンが、『ファンサービスで、オモロイ写真を撮りたいんだけど、どんなポーズがいいかな?ルミ?』と私に聞いてきたので、「それなら、当時赤塚不二夫の漫画『おそ松くん』のイヤミの"シェー!"がいいわよ!"シェー!"やってみて!わくわく!」とジョンに思いきり勧めました。そして私が"イヤミの「シェー」のポーズ"を教えたら、ジョンとポールが乗ってやってくれました。また、リンゴのこの時の表情も面白かったです。この時リンゴが急に『こんなに稼いでいるのにいったいどこで金を使えばいいんだ?』と言いだし、ジョンが『世界中に行っても窓から見る景色しか知らない。もう解散だ!』とヒステリーを起こして叫ぶのが聞こえてきました(どこの国に行っても監禁状態だったのかもしれませんね)。ブライアンは『今の発言は絶対に書くな!』と私に真顔で頼んで来ました。」
星加ルミ子編集長たちは、AM2:15頃までインタビューなどをし、4人が描いた絵を貰いますが、が、が、部屋に置き忘れてしまいます(あ~残念無念...)。
<PM 2:00>昼の部開演、オープニング・アクト始まります。
<PM:2:20>ビートルズ、ホテルを出発し、およそ5分で武道館に到着します。
<PM 3:00>ビートルズのステージ始まります(第4回)。
<PM 3:35>第4回目ステージ終演、その後夜の部まで楽屋で過ごしますが、楽屋には楽器屋などが訪れ売り込みをしています。
<PM 6:30>夜の部、オープニング・アクト始まります。
<PM 7:30>ビートルズのラストステージが始まります(第5回)。
このステージでのジョンは丸いサングラスをかけています。
<PM 8:03>ビートルズ日本武道館公演終演。
この日救護所に運ばれたのは18人で、これですべての公演が終わります。
ビートルズは楽屋に戻らず直接車でホテルへ向かい、機材は羽田空港の国際貨物に運ばれます。
【ビートルズ日本武道館公演舞台裏と終演後の彼らの自由な行動⑦】
1966年7月1日から少し遡り、ビートルズと加山雄三氏の出逢いと彼のコメントを書かせて頂きます。
<1966年6月29日>
ビートルズ来日プレスインタビュー終了後(午後4時30分)の午後5時~6時、イギリス大使フランシス・ランドール卿が表敬訪問します。
その後、加山雄三氏と東芝音楽工業の石坂範一郎専務、高嶋弘之ディレクターが訪問し会談と会食を行います。
石坂、高嶋はエプスタインと会談し、ビートルズは加山氏と雑談します。
加山氏は語ります...「僕のLP『ハワイの休日』を持って行くと、部屋にあるステレオでかけるので照れくさかったよ。その後彼らの新しいレコード(新作??..."ペーパーー・バック・ライター"かも??)を聞かせてくれた。「日本食は何が一番?」と聞かれたので「すき焼き」と答えたら早速用意されて皆で食べた。僕が卵につける食べ方を彼らに教えたんだよ」。
映画の若大将はすき焼き屋のせがれという設定...流石、我らが若大将!
加山氏は語ります...「卵に浸けて食べることを教えんたが、誰も箸を上手く使えず、肉を一本の箸で刺して食べるんだよ。ジョンは椅子をどけて床に正座しテーブルに顔をのせて食べたんだ。僕が『それは行儀が良くないよ』と言ったらジョンが『僕は今、日本人の気持ちを味わっているからいいんだ』と言ったんだ。」
加山氏はこのような証言もしています...「誰かが絵を描きたいと言い、水彩画で4人が30分以上は描いていた。俺の心の中には彼らが俺の前で絵を描いたという誇りがあるよ」。
【ビートルズ日本武道館公演舞台裏と終演後の彼らの自由な行動⑧】
《武道館公演第一回目ステージ終演後のビートルズの行動⑧》
話は再び下り <1966年7月2日>
PM10:10 音楽評論家湯川れい子氏が、週刊読売の契約記者として『「武道館」と日本語で書かれた腕章を渡す』という名目で部屋を訪問します。
この訪問は、公式な取材では無く、いつ追い出されるか内心どきどきしながら30分ほど会談することとなります。
この訪問が可能になったのには、永島氏の働きがあったからで、星加ルミ子さんだけが会談できたことに不公平があるという意見があり、永島氏は動くこととなります。
7月2日武道館公演昼の部、永島氏の秘書である荒川和江氏の下を湯川れい子氏は尋ねます。
荒川和江氏は、永島氏からの伝言「午後8時30分にヒルトン・ホテル1057号室に電話をするように。"いいこと"が待っているはずだよ」を湯川れい子氏に告げます。
そして、湯川れい子氏は電話し、その後借り通行書を貰い、10階に上がります。
荒川和江氏から「ビートルズが主催者の腕章を欲しがっているのよ。」と教えられ、「部屋にいるわ」と教えられます。
後は、自分でやりなさい!ということなのでしょう。
約1時間後、湯川れい子氏は勇気を振り絞り、ドアをノックすることとなるわけです。
湯川れい子氏はカメラマンと同行していなかったため、持参のカメラでリンゴとツーショットの記念写真を撮り、絵を貰います。
湯川れい子氏は語ります。
「最後の公演が終わってから、4人が欲しがっている"関係者用の腕章"を届けるというチャンスをもらって、部屋を訪問することになりました。カメラマンは連れて行けないので、私でも写せるようにピントを固定してもらったカメラと4枚だけ撮影できるフラッシュを持って行きました。オート・フォーカスなどない時代です。10時近くに10階に上がると、『みんな食事してるからちょっと待ってて。』と言ったのはトニー・バーロウだったと思います。音を消したテレビでは『アイ・ラヴ・ルーシー』をやっていました。ついたてを隔ててソファで待っているとエプスタインがこちらに来たので、『腕章を持って来ました』と言ったら、『OK!』と言って戻って行きました。15分くらい待って、最初にポールが出て来ました。目を丸くして『どっから来たの?窓から入って来たの?』、『そうよ。しばらくいてもいい?』という話になって、会話ともインタビューともつかない話をしました。気を使って『なにか飲みたい?』とか言ってくれるのはポールで、ポールの言いつけられて椅子やなにかを持って来てくれるのはジョージです。そのころ私が一番好きだったリンゴは向こうの方をうろうろしていて、あまりしゃべりません。写真が残り1枚になった時、ポールが『誰と一緒に撮りたい?』と聞いたんです。それで『リンゴ!』と答えると、リンゴは真っ赤になって嬉しそうにしていました。ジョンだけは丸い眼鏡をかけて離れたところに座ったまま、目が合うとそっぽを向いてしまうんです。ビートルズ解散後何年か経ち"ダコタアパート"に訪ね、ジョンと会話したことがあるんです。『あの時にあなたは意地悪だったわね』と言ったら、『ごめん、あのころはすべてがうんざりしていたんだよ』と言っていました。」。
【ビートルズ日本武道館公演舞台裏とエンディング ①/③】
<1966年7月2日>
PM11:00 湯川れい子氏が帰った後、ビートルズのメンバーはホテル内のナイトクラブ「スターヒル」に行き、ピアノなどを弾いて寛ぎます。
<1966年7月3日>
AM03:00頃 ビートルズは雑談後、眠りにつきます。
<1966年7月3日>
AM00:00 羽田空港に厳重な警備体制が敷かれ、この日見送りに来た約2000人のファンは追い返されます。
AM08:00 テーラー山形屋は、仕立てた背広をビートルズに届けにきます。
メンバーは背広を試着し、購入します。
テーラー山形屋はこの背広を1着46,000円のところ35,000円に割り引きしています。
ちなみに、大卒初任給平均が24,900円の時代です。
AM08:45 ビートルズは、ヒルトンホテルの地下土産物屋で象牙の中をくりき作った彫刻を1ダース購入します。
AM09:40 ビートルズは部屋をチェックアウトし、AM09:43(チェックアウト3分後)に黒塗りの大型キャデラックでパトカー7台に囲まれ、ヒルトンホテルを出発し、警視庁の交通規制の下、羽田空港に向かいます。
報道陣をはじめ、ファンが乗ったタクシーなど約80台(警備本部調べ)がそれに続きます。
AM10:07 ビートルズ一行は約千人の警官・機動隊に守られる羽田空港に到着します。
報道陣をはじめ、ファンが乗ったタクシーなど約80台(警備本部調べ)がそれに続きます。
穴守橋旧ターミナル入口からA滑走路を横切り、海寄りの31番スポットで待つ日本航空機ダグラスDC8「鎌倉(KAMAKURA)」の前でキャデラックは止まります。
それは、フィルムを逆回しするかのような印象で、全てが来日の時とそっくりそのまま、逆に進行します。
空港送迎デッキは早朝、午前0時から警備体制がひかれます。
徹底的にファンは追い出され、飛行機到着地点にのびているフィンガーは立ち入り禁止とされ、完全にファン不在の見送り風景になります。
警官550人、私服50人が配置され、その警官たちに、空港内518人と80台の車に乗ったファンが補導・説論され空港街1562人、348台の車が注意を受け追い返されます。
日航機とキャデラックとの距離は約10メートル、カメラマンが取り囲む中をゆっくりとビートルズの4人はタラップへ向かいます。
<1966年7月3日>
AM10:07 ビートルズ一行は約千人の警官・機動隊に守られる羽田空港に到着...日航機とキャデラックとの距離は約10メートル、カメラマンが取り囲む中をゆっくりとビートルズの4人はタラップへ向かい...永島氏がその後を私服警官と続き、4人は彼に握手を求めます。
AM10:38 ビートルズ一行を乗せた飛行機が離陸します。
次の公演地であるフィリピンのマニラに旅立つわけです。
全てが空しいことのように思われ、全ての上を、嵐は通り過ぎて行ったわけです。
永島氏は、飛び立つ日航ジェット機を目で追います。
そう!さる3月27日、ビートルズ日本公演を取りきめるためにロンドンに飛ぶ時と同じ黒のレインコートの襟を立てた永島氏の姿がもの悲しく映るのです。
<1966年7月3日>
日本航空機ダグラスDC8「鎌倉(KAMAKURA)」のから送られたビートルズからのメッセージが7月4日付けの読売新聞に掲載されます。
内容は次の通りです。
ジョン・レノン:「みなさんから親切にされ、多くの素晴らしい贈り物をもらった。そのために新たしいカバンを買わなくてはならないほどだ。」。
ポール・マッカートニー:「最後の演奏会はもっとも良かった。私たちはこれまでにこのような経験をしたことがなかった。いつになるか判らないが、今度は長く滞在するために日本に行きたい。」。
ジョージ・ハリソン:少しでもいいから外出できたらと思った。田園風景にもふれたかった。」。
リンゴ・スター:「外出できなかったが、好きなものは全部手に入れた。ほんとうに楽しかった。みなさんとお別れするのが悲しい。」。
そして、1966年7月4日ビートルズはフィリピン「リサール・メモリアル・スタジアム」でコンサートを行い、帰国し、1966年8月5日ビートルズイギリス公式盤オリジナル・アルバム『Revolver」をリリースします。
【ビートルズ日本武道館公演来日Memorial Photo Shot ①/⑨】
<1966年6月29日・来日 / 記者会見>
1966年6月29日ビートルズを乗せた日航ビッカースバイカウント機412便「松島」は、当初の予定より大幅に遅れて羽田空港に到着し、ようやくビートルズの初来日が実現し、C滑走路、31番貨物専用スポット胴体は横づけされ、タラップがあっというまに横付けされ、飛行機の扉が開くと4つのマッシュルームカットが長旅の疲れも見せず、日航プレゼントのハッピを着て(着せられて?)、ポール、ジョン、ジョージ、リンゴの順で手を振りながら旅客機のタラップに姿を現します。
白々明けの高速道路から左手にそびえる鉄骨のバベルの塔(東京タワー)を見、右手に彼らの出演する武道館を眺め、ビートルズはヒルトン・ホテルに入って行きます。
4人は10階(最上階)のプレジデンシャル・スイート(1005号室)に投宿し、クルーらも10階を貸し切って宿泊します。
そして、共同記者会見が行われます。
会見の場所は東京ヒルトンホテル『紅真珠の間』で、受付け、控えの間、廊下と関門を抜け、約460平方メートルの部屋に入ると、正面は舞台で向き合ってずらりと並んでいるその後ろにはロープを張り巡らし、カメラの放列が敷かれます。
カメラマンと記者の席は確然と分けられ、記者席入口は一人がやっと通れるくらいの広さで、ガードマンが記者たちをじろじろ眺、カメラを持っているかどうかを確認し、強引にカメラを取り上げられた外人記者とのトラブルも起こります。
会見場には、国外内の記者123社216人、カメラマン約70人、音楽評論家などを含めると総計450人が集まります。
ビートルズが座る段上席前のカーテンが明き、向かって左から、ピンクとグレーのシャツにピンクのスーツを着るジョン・レノン、ブルーのYシャツにグリーンのブレザーを着るポール・マッカートニー、クリーム色のシャツに園児のブレザーを着るジョージ・ハリソン、藤、黄、緑のブレザーに黒、白カラーのYシャツを着るリンゴ・スターの姿が映ります。
そして、ビートルズの4人は用意された机の前に立ち、まずはインタビューの前の10分程度の写真撮影を行います。
写真撮影時は、向かって右からポール。ジョン、リンゴ、ジョージと並び、この服装同様、ビートルズはリラックスムードで煙草に火をつけ、予定よりやや遅れた午後3時20分、ビートルズの記者会見が始まります。
【ビートルズ日本武道館公演来日Memorial Photo Shot ②/⑨】
<1966年6月30日のビートルズとオーディエンス①/③>
(午後5時)日本武道館は開場され、日本武道館の周辺には警官と機動隊1700人、消防署員500人導入され、また、会場内でも警官・消防署員合わせて100人の他、大学の武道クラブなど400人が警備として配置されます。
(午後6時39分)定刻より2分遅れてビートルズを乗せた黒いキャデラックが関係者入口に到着します。
会場ではすでに約10000人の観客が少し前から始まった第一部の前座演奏を無反応で聴いています。
(午後7時20分)第一部の前座演奏が終わり、15分の休憩をはさみ...♪♪
(午後7時35分)ダークグリーンのスーツを着込んだビートルズが登場します。
会場に熱気と嬌声の嵐が巻き起る瞬間です。
メンバーの名前を絶叫する女の子や身体をゆすり泣きじゃくる娘、そして卒倒すろ女性が救護場に運ばれるシーンも見られます。
しかし、無情にも観客席の通路には私服の警官550人、制服の警備員が占め、観客は立ち上がることさえ禁じられます。
そして、司会のE.Hエリックが「皆さん、長らくお待たせしました・・・」とスピーチし、ビートルズはチューニングを終わらせ、日本武道館公演が始まります。
【ビートルズ日本武道館公演来日Memorial Photo Shot ③/⑨】
<1966年6月30日のビートルズとオーディエンス②/③>
1966年6月30日ビートルズ日本武道館公演第1回目ステージ。
ダークグリーンのスーツを着込んだビートルズが登場し、これが会場に熱気と嬌声の嵐が巻き起る瞬間で、司会のE.Hエリックが「皆さん、長らくお待たせしました・・・」とスピーチし、ビートルズはチューニングを終わらせ、日本武道館公演が始まります。
オープニング・ナンバーの「Rock And Roll Music」の演奏が終わると同時に、ジョンの12フレット・ハイポジション(E7)のカッティングで始まる2曲目「She's A Woman」が演奏されます。
ポールが歌うと同時に、ポールの後ろで両手を振るジョージには会場も大騒ぎです。
<Setlist>
01 Rock and Roll Music(Chuck Berry cover)
02 She's a Woman
03 If I Needed Someone
04 Day Tripper
05 Baby's in Black
06 I Feel Fine
07 Yesterday
08 I Wanna Be Your Man
09 Nowhere Man
10 Paperback Writer
11 I'm Down
【ビートルズ日本武道館公演来日Memorial Photo Shot ④/⑨】
<1966年6月30日のビートルズとオーディエンス③/③>
<1966年6月30日 PM8:05>
武道館公演第一回目ステージの11曲の演奏が終演し、ビートルズはステージから直接駐車場へ向かい、キャデラックでホテルに戻ることとなります。
下記は、その日を街の様子も写真に捉えています。
【ビートルズ日本武道館公演来日Memorial Photo Shot ⑤/⑨】
<7月1日公演前のポールマッカートニー>
<1966年7月1日AM11:00頃>
ポールは、ロード・マネージャーであるマル・エバンスの動向で黒のトヨペットに乗りホテルを抜け出し、車は明治神宮を通り、明治神宮外苑を抜けていき、そして皇居前広場に到着し、ポールは車から降ります。
そしてポールは、皇居前広場を見渡し散歩でもしてるかのように二重橋まで歩いていきます。
しかし、追跡していた報道陣に囲まれてしまいます。
わずか5分間の散歩...。
そして!報道陣がポールに殺到しているところを、警察が見過ごすはずも無く、警察は「ポールさん、申し訳けないですが、車に戻って下さい!」と告げます。
そして、ポールたちは車に乗り込みはホテルに戻って行きます。
ホテル到着はAM11:40頃で、ポールの外出はわずか45分足らずだったと云う事です。
【ビートルズ日本武道館公演来日Memorial Photo Shot ⑥/⑨】
<7月1日武道館公演のビートルズとオーディエンス>
PM2:00 日本武道館、昼の部開演、オープニングアクトが始まります。
PM3:00 ビートルズの公演(第2回)が始まります。
セットリストは1日目と同じで、日本テレビが収録し、PM3:50で終了し、メンバの4人とスタッフ一同は武道館の貴賓室で夜の部までの時間を過ごします。
PM6:30 日本武道館、夜の部開演、オープニングアクトが始まり、PM7:30 ビートルズの公演(第3回)を行います。
【ビートルズ日本武道館公演来日Memorial Photo Shot ⑦/⑨】
<7月1日武道館公演前(貴賓室)と公演後のビートルズ>
PM3:00 ビートルズの公演(第2回)が始まり、PM3:50で終了し、メンバの4人とスタッフ一同は武道館の貴賓室で夜の部までの時間を過ごします。
PM6:30 日本武道館、夜の部開演、オープニングアクトが始まります。
PM7:30 ビートルズの公演(第3回)が始まり、PM8:03に演し、一行は待機していた車でホテルに戻ります。
PM9:00 日本テレビ系列で特別番組『ザ・ビートルズ日本公演』が放送され、視聴率は関東59.8%、関西46.1%を記録し、街頭テレビでは通常9時までですが1時間延長され、新橋でおよそ200人、上野公園で80人が観ることとなります。
これは、この時間帯では日本放送史に残る記録です。
【ビートルズ日本武道館公演来日Memorial Photo Shot ⑧/⑨】
<7月2日武道館公演のビートルズとオーディエンス&湯川れい子>
PM:2:00 日本武道館、昼の部開演、オープニングアクトが始まります。
PM:2:30 ビートルズはホテルを出発し、およそ5分で武道館に到着し、PM:3:00 ビートルズのステージ始まります(第4回)。
PM:3:35 終演、夜の部まで楽屋で過ごし、楽屋には楽器屋などが訪れて売り込みをします。
PM:6:30 武道館夜の部、オープニング・アクトが始まります。
PM:7:30 ビートルズのステージが始まります(第5回 LAST)。
この日ジョンは、丸いサングラスをかけて演奏します。
PM:8:03 終演、この日救護所に運ばれたのは18人です。
これですべての公演が終わり、ビートルズは楽屋に戻らず厳重な警備の中直接車でホテルへ向かいます。
そして、ビートルズが持ってきた機材関係は羽田空港の国際貨物に運ばれます。
PM:10:10 音楽評論家湯川れい子氏が、週刊読売の契約記者として『「武道館」と日本語で書かれた腕章を渡す』という名目で部屋を訪問します。
この訪問は公式な取材では無く、いつ追い出されるか内心どきどきしながら、30分ほど会談することとなります。
湯川れい子氏はカメラマンと同行していなかったため、持参のカメラでリンゴとツーショットの記念写真を撮り、絵を貰います。
湯川れい子氏は語ります、「最後の公演が終わってから、4人が欲しがっている"関係者用の腕章"を届けるというチャンスをもらって、部屋を訪問することになりました。カメラマンは連れて行けないので、私でも写せるようにピントを固定してもらったカメラと4枚だけ撮影できるフラッシュを持って行きました。オート・フォーカスなどない時代です。10時近くに10階に上がると、『みんな食事してるからちょっと待ってて。』と言ったのはトニー・バーロウだったと思います。音を消したテレビでは『アイ・ラヴ・ルーシー』をやっていました。ついたてを隔ててソファで待っているとエプスタインがこちらに来たので、『腕章を持って来ました』と言ったら、『OK!』と言って戻って行きました。15分くらい待って、最初にポールが出て来ました。目を丸くして『どっから来たの?窓から入って来たの?』、『そうよ。しばらくいてもいい?』という話になって、会話ともインタビューともつかない話をしました。気を使って『なにか飲みたい?』とか言ってくれるのはポールで、ポールの言いつけられて椅子やなにかを持って来てくれるのはジョージです。そのころ私が一番好きだったリンゴは向こうの方をうろうろしていて、あまりしゃべりません。写真が残り1枚になった時、ポールが『誰と一緒に撮りたい?』と聞いたんです。それで『リンゴ!』と答えると、リンゴは真っ赤になって嬉しそうにしていました。ジョンだけは丸い眼鏡をかけて離れたところに座ったまま、目が合うとそっぽを向いてしまうんです。ビートルズ解散後何年か経ち"ダコタアパート"に訪ね、ジョンと会話したことがあるんです。『あの時にあなたは意地悪だったわね』と言ったら、『ごめん、あのころはすべてがうんざりしていたんだよ』と言っていました。」。
【ビートルズ日本武道館公演来日Memorial Photo Shot (LAST)】
<7月3日 Good-Bye ビートルズ>
AM 09:40 ビートルズは部屋をチェックアウトし、AM09:43(チェックアウト3分後)に黒塗りの大型キャデラックでパトカー7台に囲まれ、ヒルトンホテルを出発し、警視庁の交通規制の下、羽田空港に向かいます。
報道陣をはじめ、ファンが乗ったタクシーなど約80台(警備本部調べ)がそれに続きます。
AM 10:07 ビートルズ一行は約千人の警官・機動隊に守られる羽田空港に到着します。
報道陣をはじめ、ファンが乗ったタクシーなど約80台(警備本部調べ)がそれに続きます。
穴守橋旧ターミナル入口からA滑走路を横切り、海寄りの31番スポットで待つ日本航空機ダグラスDC8「鎌倉(KAMAKURA)」の前でキャデラックは止まります。
それは、フィルムを逆回しするかのような印象で、全てが来日の時とそっくりそのまま、逆に進行します。
空港送迎デッキは早朝、午前0時から警備体制がひかれます。
徹底的にファンは追い出され、飛行機到着地点にのびているフィンガーは立ち入り禁止とされ、完全にファン不在の見送り風景になります。
警官550人、私服50人が配置され、その警官たちに、空港内518人と80台の車に乗ったファンが補導・説論され空港街1562人、348台の車が注意を受け追い返されます。
日航機とキャデラックとの距離は約10メートル、カメラマンが取り囲む中をゆっくりとビートルズの4人はタラップへ向かい、永島氏がその後を私服警官と続き、4人は彼に握手を求めます。
AM 10:38 ビートルズ一行を乗せた飛行機が離陸します。
次の公演地であるフィリピンのマニラに旅立つわけです。
全てが空しいことのように思われ、全ての上を、嵐は通り過ぎて行ったわけです。
永島氏は、飛び立つ日航ジェット機を目で追います。
そう!さる3月27日、ビートルズ日本公演を取りきめるためにロンドンに飛ぶ時と同じ黒のレインコートの襟を立てた永島氏の姿がもの悲しく映るのです。
日本航空機ダグラスDC8「鎌倉(KAMAKURA)」のから送られた、ビートルズからのメッセージが、7月4日付けの読売新聞に掲載されます。
ジョン・レノン「みなさんから親切にされ、多くの素晴らしい贈り物をもらった。そのために新たしいカバンを買わなくてはならないほどだ。」。
ポール・マッカートニー「最後の演奏会はもっとも良かった。私たちはこれまでにこのような経験をしたことがなかった。いつになるか判らないが、今度は長く滞在するために日本に行きたい。」。
ジョージ・ハリスン「少しでもいいから外出できたらと思った。田園風景にもふれたかった。」。
リンゴ・スター「外出できなかったが、好きなものは全部手に入れた。ほんとうに楽しかった。みなさんとお別れするのが悲しい。」。
そして、1966年8月5日にビートルズはアルバム『REVOLVER』を発売します。
<ビートルズ日本武道館公演 終わり>