George Harrison Story


Double Louise (二人のルイーズ)


ジョージ・ハリソンには、「ルイーズ」と云う二人の家族がいます。

まずは、母親であるルイーズ・ハリソン(旧名:ルイーズ・フレンチ)、そして、11歳離れた実の姉ルイーズ・ハリソンです。

ジョージ・ハリソンは、1943年2月24日、リヴァプールのウェイヴァーツリー地区の袋小路、アーノルド・グローヴにある一階にメインルームが2つ、二階にベッドルームが2つある二階建ての小さな家(2up-2down)で生まれ、彼は4人兄弟の末っ子で、下記の写真に写る1931年生まれの姉ルィーズ (Louise)、兄には1934年生まれのハリー (Harold)と1940年生まれのピーター(Peter)がいます。

                <左からハリー、ルイーズ、ジョージ、ピーター>

姉である「ルイーズ」の名前は母親の名前(ルイーズ)に因んで付けられたもので、その後すくすくと育った彼女は、ガーディアン紙によると、1950年代、スコットランド人の鉱山技術者、ゴードン・コールドウェルと結婚し米イリノイ州に引っ越し、2人の子供を儲けます。

その後、62年に弟のバンド、ビートルズが英国でデビューし、本国イギリスで人気上昇中だった頃、彼らが世界的大スターの地位を獲得するきっかけとなった米国制覇を大成功に導いたのも実はルイーズで、まだアメリカでは無名のビートルズを案じ、ルイーズはイリノイ州内のあらゆる街のラジオ局に出向き、「From Me To You」を売り込み、DJ達にオンエアをして貰い、米国のラジオ局が初めてオンエアした彼らの楽曲となり、これを機に全米でもビートルズが社会現象化するほどの人気を獲得します。

ビートルズが初のアメリカツアーをする約5ヶ月前には、ジョージはイリノイ州に住む姉ルイーズを訪ね、2週間の休暇を姉家族と過ごします。

そして、初のアメリカ公演が始まり、公演中に風邪をこじらせたジョージに弟想いのルイーズは付きっきりで看病し、投薬などの世話します。

           <右からジョージ、ルーズ、ハーリー(1963年イリノイ州・ベントン)>

姉ルイーズはアメリカ公演中のジョージに語りかけます、「ビートルズの公演中にファンのワーキャーと云う大歓声の中、チューニングをちゃんと調整しても誰もギターの音なんか聴いていないわよ」と、それに対してジョージは答えます、「いつか突然静かになって、僕のギターのチューニングが調整されてない(Out of Tuneになっている)かもしれず、手を抜いていると思われる!そんな不安がいつもあるんだ。」。

ビートルズを思うあまりにビートルズに入れ込むルイーズ、その後世界的に有名になったビートルズのメンバーの姉としてルイーズもセレブ扱いされるようになります。

しかし、それを快く思わなかった夫ゴードン・コールドウェルから離婚を迫られ、承諾したルイーズは住んでいたイリノイ州の家をビートルズにちなんだゲストハウスとして「Hard Days Nite Bed & Breakfast」に改築し、ビートルズの写真などを提供します。

ジョージの立場からするとビートルズの権利や関連するものを無許可で、まして自分の身内が展示したり関わったりしていることに対して、他の仲間への罪悪感が募り、その事件以来姉ルイーズと弟ジョージは疎遠になっていきます。

2001年ジョージは肺癌が進行し、危篤状態に陥ります。

疎遠になった姉ルイーズと弟ジョージは、ジョージが危篤状態の時に再会することになりますが、その後の話は後述にし、ここからは「ジョージを語るにはその存在が不可欠な『母親ルイーズの想い』」を伝えたいと思います。

ジョージが初めてギターを買ったのは14歳の頃で、それは学校の友達から3ポンド10シリングで買った中古のエグモンド276です。

当時のジョージにとってこれは大金なので、母親のルイーズに頼んだところ、彼女は快く了解し工面することとなります。

ハリソン家は決して裕福では無く、ルイーズは八百屋の店員をしながら家計を助け、3ポンド10シリングは云うならばへそくりみたいなものだったのでしょう。

ジョージはギターの練習を始めますがほとんど進歩ぜず、「これじゃ駄目だ!僕には才能が無い!ものにならない!」などと母親に泣き言を言う始末、これに対しルイーズは「ジョージなら大丈夫!続けることが大事よ!」と励ますものの、ジョージは相変わらずの弱音を吐く日々です。

しかし、ルイーズはジョージの弱音に対し、常に心から励まし続け、時には夜中の2時、3時までジョージのギターの練習に付き合ったと云います。

何よりも子供が大切だったルイーズらしい振る舞いであり、また4人兄弟の末っ子のジョージはルイーズのお気に入りだったからと云う理由もあったのでしょう。

そんな日々が流れ、やがてジョージのギターの腕前はメキメキ上達していきます。 

エグモンド276では物足りなくなったのか?ジョージは30ポンドもするエレキ・ギター(ヘフナー・プレジデント)のお金を貸してくれとルイーズにせがんだところ、ルイーズはこれも快く承諾します(ジョージがルイーズにお金は返したのかは不明)。

1950年代の30ポンドはかなりの大金と云うことやハリスン家は裕福ではないと云うことにも関わらず、ハリソン家、特に母親ルイーズがこれほどまでにジョージに寛容だったことに関して彼女はこう語ります、「ジョージの趣味に寛容だったのは彼をお気に入りだったのに加え、自分自身が娘時代に出来なかったことを託したから。二本目のギターは家族の手前、貸すと云う名目が必要だったの。」。

ビートルズのメンバーの親でバンド活動を理解するだけでなく応援していたのはジョージの母親ルイーズだけで、ジョージがポールの紹介でクォリーメンに加入した時も彼女は全面的に援助、応援します。

ちなみに、ジョンの母親はジョンにバンジョーの手ほどきするくらいで、育ての親であるミミ叔母さんは非常に真面目で保守的な人間でありジョンのバンド活動には全く理解がなく、何とかジョンを音楽の世界から引き離そうと躍起になり、ポールが家に訪れた時も絶対に家の中に入れなかったくらいです。

もちろんジョージも同様、この2人は「ミミ家出入り禁止」です。

これはポールの父親のジムも同様でポールの音楽活動に余り理解は示していません。

これは、ジム自身は若い頃にセミ・プロのミュージシャンだったこともあり、この世界の難しさを知っていたからでしょう。

結果的にクォリーメンの練習場所はほとんどがジョージの家で行い、ポールの家での練習は父親が不在の時だけだと云った具合です。 

ジョージはポール、ジョン同様イレブン・プラスの試験(倍率4倍)をクリアし、グラマー・スクールへ進学しています。

その後、ポールとジョージはリヴァプール・インスティテュートに進学し、ここはリヴァプール一の名門校で公立校の中ではオクスブリッジへの進学率が常時トップクラスの学校です。

ポールの出身小学校からこの学校へ90人が受験しており、ポールを含めたったの4人しか受っていません(ポールは優秀!)。

実はピート・ベストもこの学校の出身者です。

ジョンはクオリー・バンク・グラマー・スクールに進学しており、ここは労働党出身の首相を2人も輩出しており、この高校も名門校であることに間違いありません。

学歴を考えると、ジョン、ポール、ジョージ、ピートこの4人が音楽にのめり込まなければイギリスのエリートになれたのかもしれません。

このことを考えると、「ハリソン家以外の家族が音楽への道を反対すること」は至極当たり前の想いです。

『ジョージ・ハリソンと二人のルイーズ ⑥ / ⑩』

ミミ叔母さんはジョンを音楽の世界から引き離そうと躍起になり、ポールの父親のジムもミミ同様、ポールの音楽活動に余り理解せず、ビートルズの4人を出世コースへ導くように進学校への道を勧めます。

「ハリソン家以外のビートルズの家族が音楽への道を反対すること」は至極当たり前の想い...しかし、ジョージの母親ルイーズだけは違います。

ハリソン家4人兄弟の中でグラマー・スクールに進学できたのはジョージだけですが勉学よりも音楽活動に入れ込むジョージを全面的にバック・アップした結果(なのか??)、悪いことに16歳で学校を中退してしいます。 

後のことを考えると、これは、幸いと云えるのかもしれません。

ジョージは定職に就くことなくバンド活動に明け暮れ、それだけでなくテディボーイ気取りの抜な髪型に奇抜な服装をして街を徘徊する始末です。

こんなジョージにあきれ返る夫のハロルドをなだめるのもルイーズの役目で、当時では考えられない程の子供への理解度です。

そして、1960年にハンブルグへの巡業への話が出た途端ルイーズは真っ先にこれを承諾します。

17歳未成年のジョージの「ヨーロッパの悪の巣窟」と云われた場所への巡業を許したことは常識では考えらません。

ポールの場合、父親ジムの承諾を得ることはかなり難しく、まずは弟のマイクを味方に付けハンブルグの話を切り出し、最終的には話を持ってきたアラン・ウィリアムスを連れて来て直にジムを説得します。

ポールが狡賢だったのは「自分は行きたい素振りを見せないようにした」ところです。

ジョンのミミ叔母さんの説得は難易度が高く、「ハンブルグでは週給100ポンドある」と大嘘を付き、更に「絶対に学校(美術学校)に復学する」と云う誓いを立てて何とか承諾を得ます。

ジョンの「僕等はリバプールで生まれたがハンブルグで成長したんだ!」と云う言葉に集約されるようにビートルズの歴史においてハンブルグ巡業は「厳しい修行の場」であり決して軽視することは出来ず、音楽的修行だけでなくアストリッドやクラウスと云うドイツの美大生と知り合うことでビートルズは最先端のスタイルを知り得ることになります。

その後、ハンブルグからリバプールへ帰って来た直後はバンド出演の仕事も無く、ジョンもポールも学校に復学することは出来ず、ジョージも含めて3人はエリート候補生から無職の青年たちになり下がります。

「怠け者には悪魔がとり付く!ゴロゴロするな!」と父親ジムに怒られる毎日が続くポールは、就職することになり、トラックに荷物を積み下ろしするだけの仕事に就きますが、2週間も続かす、次にポールは工員になり電気のコイルを巻く日々を続けます。

しかし、この仕事はポールには全く合わず他の工員が1日に8~14個もコイルを巻けるのに対し、彼は1個半しか巻けなかったと云います。

ポール・マッカートニーの出番はまだまだと云うことです。

街はポールの用途を間違っていたのです。

ポールはコツコツとコイルを巻く、そんな日を過ごします。

しかし、これに対しジョージはルイーズと云う強い味方が居るのを理由に全く仕事をせず、ジョンに関しては根っからの反逆者であり理屈屋を通し、これまた勧められた仕事を放棄する始末です。

ジョンは「アーティストは労働をしない」なんてところかもしれません。

しかし、こんな最悪な時期は長くは続かず、バンド活動を再開し、徐々に彼らの価値が世間に認識され、栄光に向かい邁進して行くことになります。

この邁進の中、依然としてミミ叔母さんはビートルズの成功に巨大な壁となり立ちはだかります。

ある日、ジョンをバンドから引きずり出そうとキャバーンクラブに直接押しかけて来た事があり、その場に居合わせたルイーズはミミ叔母さんに「彼ら、素敵だとわよ」と告げます。

ミミ叔母さんは皮肉げに「あら、そう言ってくださる方が居るのは嬉しいわ」と言葉を返します。

ミミ叔母さんと違い、ルイーズは彼らビートルズ、いや彼ジョージの最も熱心なファンの一人であり自分一人で足を運ぶだけでなく友人や親戚などを誘って大勢でキャバーンを訪れます。

その後ルイーズは、「ジョンとミミ叔母さんの関係の悪化」を気にかけ、その後も和解に務めますが、ミミ叔母さんの返答は実に辛辣で、「ルイーズ貴女が音楽の道を進めたり、バンド活動を応援しなければお宅もうちの家も他の家族も平和に暮らせたでしょうね!?」などとここでも皮肉を言い放ちます。

ポールの父ジムの場合は、ポールの将来を気にかけキャバーンクラブには時々足を運びますが、彼らの音楽の魅力にはほとんど気がつかなかったと云います。

ミミ叔母さんやジムの不安を払拭するには、リヴァプール一のレコード店を経営する裕福な地元の名士「ブライアン・エプスタイン」の登場を待たねばならなかったと云うことです。

その後、ブライアン・エプスタイン、そして、ジョージ・マーティン、リンゴ・スター、ラスト3つのピースが揃いビートルズは完成し、空前絶後の嵐を巻き起こすことになります。

結果的に、ビートルズは空前絶後の嵐を巻き起こしますが、誰が最初にビートルズの真価に気づいていたのでしょうか?

メンバーは別として誰が最初にビートルズの成功を信じたのでしょうか?

それはジョージの母、ルイーズ・ハリソンに他ならないでしょう。

「彼女の先見の明は疑いようがない!」と云うことです。

エルガーを除けばイギリス人の音楽家と云うモノはある種のエスニック・ジョークになっていたくらいで、ビートルズの大成功以前の栄光に関しては皆無と云っていいでしょう。

しかし、その成功を逸早く察知した「ルイーズ・ハリソン」。

彼女は、ビートルズの現役時代、少しでも時間を割いて世界中からジョージ宛に来たファンレターにしっかり目を通し、時には夜中の2時頃まで、それも走り書きのメモ程度ではなく便箋2枚に至るキチンとした手紙として、しっかりと返事まで書いています。

その数は週に200通以上もあり、加えサイン入りの写真も同封したと云うから驚きです。

それも、莫大な郵送料は全て彼女の自腹です

今では当たり前の話なのでしょうが「ファンあってのミュージシャン、ファンあってのビートルズ」。

ルイーズは、自分自身が熱心なビートルズのファンと云うこともあり、ファンの気持ちは一番分かっていたのでしょう。

自分もビートルズの一員だと云う自負もあったと思います。

ルイーズからファンレターの返事を受け取ったファンは大喜びしたことは間違いないでしょう。

ただし、ジョージの名前で返信したのかルイーズの名前だったのかは不明です。

ジョンは両親から育てられず母親は17歳の頃に他界しており、ポールの母のメアリーはポールが14歳の頃に他界し、リンゴの両親は健在でしたが幼い頃に離婚しています。

ポールやジョンの母親が急死したことで、ジョージは大いにショックを受け、次は自分の番だと怯えた時、ルイーズは「心配無いわよ!私は決して死にはしないから!」と言い、息子ジョージの不安を吹き飛ばします。

ソロ作品の「マザー」で、両親不在のジョンの心の深い傷をは聴くことが出来ます。

名曲「レット・イット・ビー」は亡き母親に捧げられた曲で、ポールにとって母親の死は深い傷を残したことと感じる取ることができます。

ジョージも同じように母親への想いは募っても、『心の傷ではなく「愛」そのもの』が残ったのではないでしょうか。

一般にイギリス人は個人主義者で子供に余り関心を寄せることは少ないと言われています。

しかし、ルイーズの父親はアイルランドからの移民でありアングロサクソンではなくアイリッシュであったこともあり、家族中心そして子供には何を置いても協力するという気持ちが強かったのだと思われます。

「次は僕の番だ!」と思っていたジョージの杞憂は的外れではなくルイーズは1970年7月7日ビートルズの解散から3ヶ月後に脳腫瘍で他界します。

ルイーズ・ハリソンにとっても「ビートルズこそ我が人生」であったのかもしれませんね。

「私もビートルズの一員なのよ」と、天国から聞こえてきそうです。

「ビートルズが解散した直後」の1970年7月7日、ジョージの母親ルイーズは脳腫瘍で他界し、その31年後の2001年11月29日には、ジョージが肺がんのため59歳の若さで米ロサンゼルスで亡くなります。 

彼が亡くなった際の遺産は概算3億ドルで、 妻のオリビアと息子のダーニには、この巨額の遺産のほか、彼が1970年にロンドン郊外ヘンリーオンテムズにて購入した部屋数120室のビクトリア調の大邸宅「フライアー・パーク」が残され、このお城の資産価値も最低でも約4000万ドルになります。

また、ジョージの遺産は「お城」だけでは無く、オーストラリアのハミルトン島やハワイのマウイ島に多くの高級不動産や、毎年、楽曲の巨額印税があります。

では、姉のルイーズを再び登場させます。

60年代~70年代、ジョージと姉ルイーズの関係は親密でしたが、90年代から疎遠になり、ルイーズはジョージともその家族らとも接触しなくなり、その後、ジョージが亡くなるまで入院していた米ニューヨーク州のスタテン島の病院で、弟ジョージを見舞った後、ジョージの妻オリビアとその姉のリンダ、そしてキーダとの再会しますが、それ以降、現在も彼女らとは接触を断ったままで、米中西部ミズーリ州南部の人口約6000人の田舎街ブランソンの近くの1ベッドルームの小さな家に1人で暮らしています。

1980年からジョージからの毎月2000ドルの支援が年金の様な形では支払われており、デーリー・メール紙によると「ジョージの姉ルイーズは「支払いは弟の意志でした。弟はこう言っていました『僕の懐具合を考えれば、姉の求めに応じないという理由は存在しない』と語っている」」、しかし、この毎月の支払い2000ドルも十数年前からカットされます。

姉ルイーズさんは語ります、「私は支払いのカットについては全く気にしていません。生計を立てる手段は見つけていますから。それに誰からも非難されるような生き方はしていません。自立していますよ。弟からの支払い停止など全く気にしてはいない。みんなと同じように、私もお金には苦労しているが、配給のパンの施しを受けたり、英国でいうところの「Skint”(一文無し)」と云う状態ではない。むしろ弟のジョージがくれたこの家に住め、とても幸運な立場にあると考えているし、裕福でも心のないお城暮らしになど、ちっとも憧れてはいない。」。

ジョージは死の直後の姉ルイーズに語ります、「僕は姉さんのことをもっと助けられたと思う。本当にすまない。」。