George Harrison Story (ジョージ・ハリソンの軌跡)



1943年2月24日、ジョージ・ハリソンはリヴァプール・アーノルド・グローヴ12番地で生まれます(出生届上は 25日)。

リヴァプールのウェイヴァーツリー地区 (Wavertree) の袋小路にある一階にメインルームが2つ、二階にベッドルームが2つある二階建ての小さな家です(2up~2Down)。

この「ジョージ」は時の国王ジョージ6世にちなんで名づけられています。

父親の名前はハロルド(Harold)、母親の名前はルイーズ (Louise)で、父親の職業はバスの運転手でその前はホワイト・スター・ライン社* の船のスチュワードをしています。

ハロルドは語ります「ジョージが生まれた後、つま先立ちでそっと2階に上がって見てみた。その時感じた唯一のことは、私にとてもよく似ているということだった。」。

ジョージは4人兄弟の末っ子で、姉に1931年生まれのルィーズ (Louise)、兄には1934年生まれのハリー (Harry) と1940年生まれのピーター (Peter) がおり、生狭い家に6人家族と云う、典型的なワーキング・クラスの家庭で育ちます。

ジョージの家族は、全員パーティーや音楽好きの明るい家庭で、ジョージが6歳になった時、一家はアプトン・グリーン25番地に引っ越し、ジョージは、ダブディル・ロード幼児学校、ダブディル小学校に通い、ポールと同様、11プラス試験 (11-plus exam=英国の初等教育を終える11~12歳の児童が受検する「中学校入学のためのセンター試験」のようなもので、 この成績結果によって入学できる学校のグレードが決まる)をパスし、リヴァプール・インスティテュートに入学します。

友人達は彼を「独りぼっちで隅に座っているようなヤツ」と評しますが、曲がったことが嫌いで、筋の通った言葉や振る舞いをする少年です。

しかし、彼は1954年から1959年までここに在籍しますが、成績が悪く何の資格も得られないまま退学します。

折しもスキッフル・ブームが訪れ、兄ピーターのギターに合わせて洗濯板を鳴らすのが、ロックンロールに夢中なジョージの初めての楽器体験となります。

これは、一緒にバンドを組もうとしていた2番目の兄ピーターが既にギターを持っていたためなのですが、しばらくするとギターを演奏したい気持ちが強まっていき、とうとう同じ高校の生徒から中古のギターを母親ルイーズの援助で譲り受けます。

そして毎日の練習のおかげでギターの腕前が上達したジョージはまたまた母ルイーズにお金を援助してもらい、初めてのエレクトリック・ギターを手にします。

そして、13歳になったジョージは、兄ピーターらと共に「Rebels / レベルズ(反逆者たち)」というバンドを結成します。

その後ジョージは、1950年の半ば、バスの中で出逢った同じ学校の上級生、ポール・マッカートニーの誘いでジョン・レノン率いる“クオリーメン”に加入します。

バンド加入のきっかけとなったのは、空のバスの2階を使って行われた即席オーディションにおいて、当時高等テクニックを要したビル・ジャスティスの"Raunchy(ラウンチー)"というギターインストゥルメンタルを完璧に弾きジョンに認められたことで、一説にはジョージの家をバンドの演奏のために借りる目的・・では無いと思います。 

ちなみに、ジョージ自身は、ポールに紹介される以前からジョン・レノンの存在は知っており、何故なら、以前ジョージがアルバイトをしていたクウォーク精肉店の得意先の1つがジョンの家だったからです。

クオリーメンに加入したジョージは、いつもギターに触っていたいという情熱を満たすため、以前から在籍しているバンド、“レス・スチュアート・カルテット”も辞めずに活動に勤し、母親ルイーズの強力な支援もあり、ギタリストとしてプロになることを決意します。

1960年、ジョン、ポール、ジョージ、ピート・ベスト、スチュアート・サトクリフのメンバーで「ビートルズ」となったバンドは、ドイツのハンブルクへ巡業に出かけます。

時に彼らは、8時間以上、夜通し演奏することもありましたが、ジョージには苦にならず、ギターの腕も上達していくと同時に、ビートルズもワン・ランク上のクラブで演奏できることになります。

全てが順風満帆に思われた矢先、17歳だったジョージが未成年者不法就労の罪で逮捕され、国外退去となってしまいます。

後に、ポールとピートもあらぬ罪を着せられて国外退去、ジョンも結局、リヴァプールへ帰ってくることになります。

疲れ果てて、バンド活動に失望するジョン、そして、音楽を見切って工場の職に就いたポール...しかし、ジョージはビートルズの成功を疑うとことはなく、ジョンとポールのもとを訪れ、必ず成功するからやり続けようと励まします。

そして、ジョンもポールも音の世界へ戻ります。

この時の、ジョージの貢献度は、大大大!・・と云う訳です。

ビートルズのデビューにあたり、ピートからリンゴへのドラマーの交代劇があります。

ハンブルク巡業で親しくなったリンゴ・スターを強力にプッシュしたのはジョージで、二人の友情は厚く、生涯続くこととなります。

デビュー・シングルをレコーディングする初のセッションで、「何か気に入らないことはある?」と尋ねるプロデューサーのジョージ・マーティンに対し、緊張するジョンとポールを尻目に、ジョージが「あなたのネクタイが気に入らない」と言い、この一言で場が一気に和んだという有名なエピソードも残っており、ジョージ・マーティンは、彼のユーモアのセンスの高さにもビックリします。

ジョージは、何よりもギターを弾くのが優先で、オリジナル曲にはさほど興味を示さない日々を続けますが、版権管理者の勧めで曲を書いてみることになります。

本格的なソングライターとしてジョージがデビューするのは、1963年に発表されたセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』収録の「ドント・バザー・ミー」で、次作『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』(1964年)では12弦ギターを導入、ここで一気にビートルズ・サウンドを他の音楽と差別化することに成功します。

そして、『ビートルズ・フォー・セール』では影響を受けたチェット・アトキンスやカール・パーキンスのギターを完全に自分のものにし、1965年にリリースされた『4人はアイドル』では自作曲「アイ・ニード・ユー」でのボリューム奏法など、新しい技術を模索します。

また、「ユー・ライク・ミー・トゥ・マッチ」を発表するなど、ソングら―ターの力を付けて行きます。

ビートルズ主演映画『ハード・デイズ・ナイト』や『ヘルプ! 4人はアイドル』で、監督を感心させたジョージの俳優としての自然な演技も見逃せないでしょう。

ジョージは、映画『ヘルプ!』での劇中で使われた小道具であるインドの楽器“シタール”に興味を持ちます。

1965年リリースのアルバム『ラバー・ソウル』収録の「ノルウェーの森」では、初めてポップスにシタールを導入し、さらに翌1966年には、インドのシタール・プレイヤーである“ラヴィ・シャンカール”と運命の出会いを果たします。

そして、同年に発表されたアルバム『リボルバー』収録自作曲「ラヴ・ユー・トゥ」で大胆にシタールを入れ、後のラーガ・ロックの原型を作ります。

このアルバムにはこの曲「ラヴ・ユー・トゥ」と「タックスマン」、「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」の3曲がジョージ作品として収録されています。

ジョージがソングライターとして開花したアルバムと云えるでしょう。

その後「インド音楽を感じる取るには、自らインドを訪れるべきである」と云うシャンカールの教えを守り、インドでシャンカールにシタールの教えを受けます。

1967年リリースのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』では、インド楽器だけの本格的な作曲「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」に挑みます。

この時期、フラワー・ムーヴメントが起こり、ヒッピーの本拠地であるサンフランシスコのヘイト・アシュベリーへ、ジョージはビートルズのメンバーの中ではただ一人訪れますが、そこではドラッグづけの若者たちが寝そべっているだけで、ジョージは幻滅し、帰国することになります。

バンドの成功を願い続けたジョージの心に疑問がわき始めたのはこの時期で、ジョージはショー・ビズ界にも疑問を持ち、絶えず人生の意味を探し続けます。

そんな折ジョージは、妻パティがマハリシ・マヘシ・ヨギなる人物の講義を聞きに行ったことを知ります。

妻の勧めで講義を聞きに行ったジョージは、超越瞑想の存在を知ります。

ジョージはこれをビートルズのほかのメンバーにも勧め、結果的にビートルズ全員で瞑想修行に出かけることになります。

翌1968年にはビートルズと妻たち、友人たちは瞑想経験のためインドを訪れ、修行を続け、何十曲もの作品も完成させます。

帰国したジョージはその教え自体は肯定しており、後に「瞑想体験をして、祈りの力を信じるようになった」と語りますが、ジョージにとってインドの精神世界は切り離せない存在となっていきます。


シタールの修行は一生かかることや限界を感じたジョージは、再びギターの世界へと回帰します。

ジョージは語ります、「ある日、バーで偶然クラプトンとジミヘンに逢い、その時のイメージが強烈でだった、やっぱり僕はギター弾きだと思ったよ。(映画『living in the material world》より)」。

1968年11月22日リリースの『ザ・ビートルズ(通称:ホワイト・アルバム)』収録の「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」では盟友のエリック・クラプトンを招き、ビートルズ内の雰囲気を変えることに成功し、その後ジョージとクラプトンは影響を与え合います。

実質的にはビートルズのラスト・アルバムである1969年リリースの『アビイ・ロード』では、ソングライターとして成熟したジョージの楽曲が収録され、「サムシング」がジョージ初のビートルズのシングルA面曲にもなり、このアルバムでは「ヒア・カムズ・ザ・サン」をはじめ、新しくムーグ・シンセサイザーを導入し、ビートルズ・サウンドのさらなる可能性を追求します。

 ビートルズの作品は"レノン=マッカートニー"の楽曲が優先されるレコーディングの傾向にあり、ジョージは未発表の曲をたくさん抱えます。

ジョージは他のメンバーに語ります、「ビートルズを存続させた上で、ソロ・アルバムを出そうかと思う。」。

しかし1970年、ポールの脱退宣言によりビートルズはそれぞれの道を歩くようになります。

ジョージは語ります、「ポールが脱退宣言を発表した日、ビートルズのヒストリー映画『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』(後の『アンソロジー』)を観て過ごした。思い出深い日だったよ。」。

そして、ジョージは、未発表曲を一気に放出した1970年のアルバム『オール・シングス・マスト・パス』をリリースします。

ジョージが解散後のビートルズのメンバーの中で最初の大成功を収めることになります。

ジョージの楽曲は、独特の美しい旋律を持ち、ジョンやポールには無い高貴なイメージが大きな特徴で、スライドというテクニックを習得したギターは、ジョージのトレードマークとなって行きます。


1971年8月1日、ジョージはシタールの師であるラヴィ・シャンカールの要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサート(バングラデシュ・コンサート)を開催し、エリック・クラプトンや、ボブ・ディラン、レオン・ラッセルなどに声かけ、イベントは大成功を収め、20世紀最大のロック・イベントと称されます。

その模様を収めたライヴ盤は、1972年度グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝くことになり、続いて1973年にはアルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』発表し、全英2位・全米で5週連続1位を記録します。

このアルバムはジョージの作品のなかで最も宗教色が強く、ストイックな内容となっており、このアルバムの内容と同期し、ジョージの私生活も非常にストイックなものになって行きます。

煩悩を断ち切ろうと孤独にひきこもるジョージに、妻のパティはついて行けなくなり、以前から思いを寄せ合っていたエリック・クラプトンのもとへ走ります。

しかし、ふたりの幸せを考え、ジョージは快く祝福し、ジョージとクラプトンの兄弟のような関係は生涯崩れること無く続くこととなります。

1974年にはビートルズ時代、アップル・レーベルで考えていた思想を活かし、若手やインド音楽のレコードを世間に広めるために、自身の「ダーク・ホース・レーベル」を発足させ、その名も『ダーク・ホース』というアルバムを発表します。

1975年リリースの『ジョージ・ハリスン帝国』、1976年リリースの『33 1/3』、さらにビートルズ時代とアップル・レコード時代を総括するベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブ・ジョージ・ハリスン』を発表します。

1977年は新しい伴侶であるオリヴィアとゆっくり過ごすために1年間音楽活動を休止しますが、オリヴィアの存在と息子ダニーの誕生を反映した穏やかな流れを感じられる内容に仕上げた1979年リリースの『慈愛の輝き』で復帰します。

1980年9月、ジョージはジョンとヨーコと一緒にモンティ・パイソンのコンサートを観に行き、ジョージは、ジョンに新しいアルバムとなる『想いは果てなく-母なるイングランド-』のデモ・テープを渡しますが、同年12月にジョンが死去します。

翌年1981年に、ジョンへの追悼曲「過ぎ去りし日々」を収録発表し、収録にはリンゴとポールも参加し話題になります。

1980年12月8日のジョン・レノン射殺事件後、1982年には次作『ゴーン・トロッポ』を制作・発表しますが、当時の彼は音楽業界に殆ど興味を失っていたジョージは、アルバムの宣伝には全く力を入れず、所属レコード会社のワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外と云う結果に終わり、その他の国ではチャートインさえすることもできず、このアルバムの発表以降、アーティストとしての活動から半引退してしまいます。

ジョージは語ります、「プライベートでときおり楽曲を書くことはあったものの、特に1985年は最も音楽から離れた年だった。。

本格的な音楽活動から遠ざかっていたジョージに変化をもたらしたのが、1986年公開のマドンナとショーン・ペンがW主演した映画『上海サプライズ』で、ジョージ自らも出演しています。

そしてジョージは、「史上最大のカムバック」と呼ばれたアルバム『クラウド・ナイン』を1987年にリリースし、シングル・カットした「セット・オン・ユー」が全米1位に輝きます。

1988年にはボブ・ディラン、ロイ・オービソン、トム・ペティ、ジェフ・リンらと「トラヴェリング・ウィルベリーズ」を結成し音楽活動を続け、1991年には17年ぶりのコンサートツアーであり、25年ぶり待望の日本公演を実現させ、盟友エリック・クラプトンとともに来日を果たし、ビートルズ時代を含む、自身のキャリア集大成となるコンサートを披露してくれます。

このコンサートの模様は、アルバム『ライヴ・イン・ジャパン/ジョージ・ハリスン with エリック・クラプトン and ヒズ・バンド』で聴く事が出来ます。

レコーディングそして、ステージでもみごと復帰したジョージは、翌1992年にはカール・パーキンス、ゲイリー・ムーア、ボブ・ディランらのコンサートに飛び入り、さらに、TOTOのジェフ・ポーカロ追悼ライヴにも参加します。

ジョージの交流関係の広さを表していると云えるコンサートでしょう。

また、クラプトンと共にロイヤル・アルバート・ホールでもコンサートを行ない、音の世界を盛んに活動します。

1993年には、ビートルズ自身が語るビートルズ・ヒストリー、アンソロジー・プロジェクトが始動し、ジョージの気持ちも高揚したと云われていおり、このプロジェクトは、CD2枚組3セットのアルバム『アンソロジー』と、DVD BOXで観ることが出来ます。

喉頭癌が心配されていたジョージは、1990年代半ばを過ぎたころから、数回にわたり癌治療を受けます。

そしてジョージは1998年に「癌は治療され、再発の恐れはない」と医者に知らされ、その旨を発表します。

その後、1999年12月(晦日)ジョージの自宅である“フライアー・パーク”に何ものかが不法侵入し、ジョージは家族の安全を考え、男を取り押さえますが、刃物で数か所を刺され重傷を負います。

犯人はヘロイン中毒者で、ビートルズを悪魔と思っていたと云います。

幸い命に別状はなかったものの、世間に与えた衝撃は非常に大きく、この話を聞いた多くの人が、1980年のジョン・レノン射殺を思い出し戦慄します。

ジョージは入院中し、年を明かし、2000年1月1日に退院し、心配をかけた人々へ感謝の言葉を表明します。

その後、CDのリマスターに非常に興味を示すジョージは、2001年に『オール・シングス・マスト・パス~ニュー・センチュリー・エディション~』を発表し、そのプロモーション活動の中で、「新作についても完成が近い」ことを明かします。

そしてその新作である、ニュー・アルバムのレコーディングに入ります。

このアルバムは、ジョージの死後、2002年に『ブレインウォッシュド』としてリリースされます。

しかし、今度は肺癌であったことが発覚、さらに脳腫瘍も併発していたことが判明します。

ジョージは、フランスでコバルト放射線治療を受け療養生活に入りますが、世界中のタブロイド誌ではジョージの体調に関する様々な憶測が飛び交います。

本人からは否定のコメントが出されたものの、秋に入ると報道は更に加熱し、2001年11月には、各国の大衆紙で彼が危篤状態であることが報じられます。

そしてそれから間もない同年の11月29日(日本時間11月30日早朝)、肺癌のため彼は滞在先のロサンゼルスで死去(58歳没)。

なおビートルズ・ファンからの追悼の巡礼を逃れるためにオリヴィア夫人が虚偽の場所を死亡証明書に記載したため死亡した場所は明らかになっていません。

ジョージ・ハリソン・・その人気は衰えることもなく、今もなお沢山のファンやミュージシャンを魅了してやみません。

そして永遠に消えること無く僕たちの記憶の中で生き続けるミュージシャンでありプロデューサーです。

僕の中のジョージ、皆様の中のジョージ、目を閉じれば彼への「想い」と「思い出」が蘇るでしょう。

それぞれの「ジョージ・ハリソン」として...。

                          <ジョージ・ハリソン物語、終わり>