【Paul McCartney Story / ポール・マッカートニーを物語る】

 

1942年6月18日、ジェイムズ・ポール・マッカートニーはリヴァプールに生まれ、父親の名前はジェームズ(ジム)、母親の名前はのちに「レット・イット・ビー」の歌詞のなかで「マザー・メアリー」として登場するメアリーで、当時綿花のセールスマのジムは17歳ころ結成の「ジム・マックス・バンド」で活躍するピアニスト兼トランペッター、メアリーはポールが生まれた病院の看護婦長です。

ポールは「僕の家にはピアノがあり、「僕は休日に父親の弾くピアノを楽むことを覚えた。これが後の自分の音楽的才能に多大な影響を与えた。これは父の影響なんだ。」と語っています。

リヴァプール・インスティチュートに在学するポールは成績も良好で、健全な学校生活を送り、父親に習いトランペットを始めますが、吹きながら歌を歌えないのが悩みで、ギターに転向していきます。

ポールは語ります、「最初はまったく上手く弾けないんだよ。少しして左利きの自分は右利きの人とは逆さまにギターを持たなければならないことに気づいた。コツを飲み込むと、めきめき上達して行ったんだ」。

ポールとギターの結びつきを決定的にしたのは、皮肉にも14歳のとき母親が癌で死亡したことで、ポールは気が滅入らないようにギターに没頭し続け、「トイレに入っているときさえギターを持っていた」と弟のマイケルは語ります。

1957年7月6日、友人に誘われ観に行ったクオリーメンのライヴで、フロントでバンジョーのコードを弾きながら独自の替え歌を歌うジョン・レノンに興味を持ちます。

舞台裏でジョンに紹介され、「トゥエンティ・フライト・ロック」などのギターの伴奏と歌はもちろん、歌詞も完璧に弾き語りしてみせ、ジョンを感服させます。

その後、ジョンからの誘いでクオリーメンに加入します。

オリジナル曲をすでに作っていたポールは、ジョンを誘い、共作で作曲活動に勤しみます。

ここに「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」の誕生です。

ポールはクオリーメンを改善させるべく、以前からの友人だったジョージ・ハリソンをクオリーメンに加入させ、音楽的にほかのメンバーより抜きん出ていたポールは、いつもバンドの音楽的向上に力を注ぎます。

その後、ジョンの大親友のスチュアート・サトクリフをベーシスト迎えますが、画家を目指すスチュアートはバンドを脱退、ギタリストを夢見ていたポールはジョンもジョージもその座を譲る気は無いこともあり、渋々ベーシストに転向し、さらに、サウンドがもの足りないと感じると、ドラムを叩き、ピアノを弾いたりと、すでにデビュー前からマルチ・プレイヤーぶりを発揮します。

1962年の元旦に行われたロンドンのウェスト・ハムステッド区ブロードハースト・ガーデンズ165番にある「デッカ・レコード社のオーディション」での落選、そして、ロンドンのセント・ジョンズ・ウッドアビー・ロード3番のEMIスタジオを初めて訪れた歴史的な1962年6月6日(E.M.I.セッション)を経て、ビートルズは主にポールが手がけた「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューします。

当時のミュージック・シーンの中心はラジオとコンサートで、1962年のデビュー後もステージでメンバーを盛り立て、コンサートの流れを索引していた天性のショー・マン、ポールの貢献は大きく、作曲面では、レノン=マッカートニーで「フロム・ミー・トゥ・ユー」「抱きしめたい」「シー・ラヴズ・ユー」といったこれまでにない斬新な楽曲を次々とヒットさせます。

ポールが手がけた楽曲には、「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「オール・マイ・ラヴィング」「キャント・バイ・ミー・ラヴ」などがあり、ポールは50年代のロックンロールの進化型と云える「シンプルだがヒネリのあるロックンロール」を量産します。

これは、ポールが早くからソングライターとしてすぐれていたことを如実に表しており、レパートリーもテンポの早い曲ばかりだと観客に飽きられると、「蜜の味」「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」「アンド・アイ・ラヴ・ハー」など、スローな曲も取り入れ、トータル・プロデューサー的な面も覗かせます。

1965年には、夢の中でメロディが沸き上がってきた「イエスタデイ」を作曲し、他のメンバーも完成度の高い楽曲だと感じ、「ソロで出したほうがいい」とアドバイスをしますが、バンドとロックンロールを何よりも愛するポールは結果的にビートルズのアルバム『HELP !!』のB面に収録し、本国イギリスではシングル・カットさせません。

しかし、アメリカで(日本でも)シングル・カットされたこの曲は売れに売れ、ポールのイメージ・ソングとして定着してしまいます。

しかし、生粋のロックンローラーであるポールは「アイム・ダウン」「ヘルター・スケルター」「バック・イン・ザ・U.S.S.R..」「バースデイ」など、ハードなロックをポールは何曲も生み出しており、「イエスタデイのイメージばかりが強調されることが多く、不本意なところがある」と語る時もあります。

1964年、ビートルズは前人未到のアメリカ制覇を成し遂げ、ワールド・ツアーも大成功に終わらせますが、コンサート自体は音楽がファンの悲鳴にかき消されるという想像を絶するもので、すでに社会現象にまでなっていたビートルズのコンサートに便乗し、各地でさまざまな事件、暴動も起こるようになり、ジョンに至ってはこの状況に常に疑問を持ち続け、当時、スターが発言するのは御法度だったベトナム戦争についても積極的に語りだします。

無意識のうちに矛盾を抑えきれなくなったジョンは、1965年に問題作と云われる「ヘルプ」を発表、そして1966年にツアー活動をストップすると、一早く映画『ジョン・レノンの僕の戦争』に出演するなど、音楽以外の場所でも常に自分を模索し続けます。